戦後80年を迎え、ここ日本では戦争経験者が年々減少してゆく危機感、つまり戦争を知らない世代しか居ない時代がやってくる、と云われて久しい。もしや戦後百年の時には、“太平洋戦争”という言葉も通じないかもしれない。その中でいかに戦争の悲惨さを伝えるか、というのは命題に違いないが、何だかそれは事故や事件や災害や災難に巻き込まれなければ自分事として考えられぬ様に、実際に戦争を経験しなければ本当の処は分からないだろうと思う。危機感とか悲惨さは理屈として分かっていても、自分や自分の身の回りがその生き死にに関わらない限りは、というか一々こんな事──戦争をしてはならない──を言わなければいけない時点で、他人事である。これが戦争未経験者の限界である。或いは思想・言語の限界である。厳密には“私の”思想・言語の限界であるが、そして“私という”戦争未経験者の限界であるが、そう表記すると“そりゃそうだろうよ”と異論反論も出ないだろうから、つまり勝手に異論反論してくれたらば、より建設的に、戦争をしてはならない議論、討論、運動、活動などが行われるであろう。
それを承知の上で、戦争などクソ喰らえである。言い出しっぺの指導者同士のみでやる、とか世界共通の子供でも分かる様なルールを一つ作ること。それを破ったらば、人外魔境の鬼畜を扱う様な世界にすること。まず第一に、それについての議論である。意識改革と云わぬ迄も、意識を少し新たにするだけだ。本当の処、トランプだネタニヤフだプーチンだ金正恩だの家の庭あたりで勝手にやっていてください。The war must be fought only in President Trump's backyard. את המלחמה יש לנהל רק בחצר האחורית של נתניהו. Война должна вестись только на заднем дворе Путина. 전쟁은 김정은의 집 정원에서만 이루어져야 한다. 優雅にお茶とかコーヒーとか飲んでないで、他を巻き込まないで、貴方だけで、貴方だけが、お・や・り(さあ、しっかり、ねらいをさだめて、いつものように)。
こんな事を書いていると「脳内お花畑の勘違い左翼か」とか、いやむしろ「無知なだけのファッション右翼やろ」とか、よく考えもしないで、というか考えもしない事が最大の攻撃・口撃だと思って、それこそ無知による誤解や勘違いをされるのだが、わたくし左翼だとか右翼だとか気持ち悪うございます。デモ行進かSNS上でそう誰にでも吠えていてくださいまし。誰かと誰かで群れながら。彼ら彼女らと集(つど)いながら。そんなのは手前の趣味ぢゃない。そんな野暮用をやりに産まれて生きてんぢゃない。ただ音楽と文学の邪魔になるから書いただけ。ただ人生と生活の障害となるから言っただけ。だからニーチェ云う処の“畜群”に堕(だ)するな。いや落ちぶれたって良い。ルサンチマンも分かった。みな知っている。皆が皆、身に覚えがある事だ。だから群れるな。粋であらせろ粋であれ。連帯するな連帯しろ。手前(一人称)も手前(二人称)も、そうして手前(三人称)も。
現職の総理大臣が、“戦後80年談話”を出すだ出さぬだで逡巡(しゅんじゅん)しておられたので、私が代わりに談話を出しました。あなかしこ、あなかしこ。