2026年1月10日土曜日

余情といふ事

美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。
-小林秀雄



 君等が現実をやればやる程、生活とか真実へ夢中となる位に、それはどんどん空虚な、虚無の喧騒となり、その色の無い仕様も無さに、避難する様に駆け込んだ静寂の絢爛(けんらん)、実に辟易とした己が耽る美、この見果てぬ夢こそ真なりと、夢現(ゆめうつつ)の逆転現象が起こる迄、私はいっつもいつもこんな事を書くのを生き甲斐にしている、そういう羽目となる人生、性倒錯、人世(じんせい)の盗作……本当はこっちなのだぞ、皆様!!貴様だって、しょうもないぢゃんって?本当しょうがねえなあ、その色の無い仕様も無さは、この仕様が無えのは色々を塗りたくり過ぎた、塗り潰した色の黒なの!!

 憲坊(のりぼう)めが黒い椿(つばき)となった記念すべき日に──チェ/チェ/チェ/チェ/チェ/チェンジズ。てか、ボウイ様が黒い星になってもう十年か……何か一つ、形にしてやろうぞ。ねえ?


「黒椿」
by Nori MBBM

1. 黒椿(くろつばき)

詩人諸君!!
音楽家、文学者共
貴方々に華が無さすぎる
肉体の毒が無さすぎる
豪奢で過剰な執着が無さすぎると
それぢゃあ空気で有りすぎると

エロスだけも
グロテスクだけも
ナンセンスだけも駄目だ
三位一体でヤりまくれ
それとプラスアルファも忘れるな
では、お手並み拝見という訳で

ここに一花咲かせましょう──
黒すぎる椿


2. 黒椿(くろばな)

やっと怒れる華となる
土の中に閉じ込められた
其処からやっと芽を出した
底から空へと華を付ける迄に
抑圧され続けた黒歴史
黒、怒濤が如く咲き誇れ
事情も知らぬ奴等に勝手に
綺麗、可愛いと誉めそやされ

心底ブチ切れているワ
椿、妖しく微笑みつつも
致命的乖離を何とかせねば
心、身体が切り離されている
優しさ柔さ何処かしら
色々と色んな色を探すも
あれも違うのこれも違うの
常に悪戯に混ぜ合わせる程に

黒い華


3. 黒椿(くろはる)

先生や親に進路や成績の事で苦言を呈された
「勉強好きな奴なんて居る訳がない」と反抗した
もちろん勉強好きな奴が居る事は知っていたし
自分はまだ勉強好きな方だと思っていたが
“勉強を押し付けないでくれ”という意味でそう言った

“変わる事を押し付けないでくれ”って意味で
勉強なんてものを始めたら人が変わっちまうから
であるから全て自己責任でやるしかないもんな
逆説的に云えば変わりたくなかったんだろ
変わりたく、染まりたくなかった青さ、黒々しく!!

黒い春


4. 黒椿(くろちん)

世界を変えてやる!
自己も変えられぬのに?
真黒な色を落とす事はおろか
その色々が何色だったかも分からぬのに?
この色々が真白であった事も知らぬのに!

自己を変えてやる?
世界を変えたいならば!
色んなものとの想像や創造を
国と国とで戦えば闘う程に朕は黒くなる!
華と華とで闘えば争う位に椿は黒くなる?

黒い椿


5. 黒椿(ぐろちん)

マイノリティです
生理的、心理的、社会的に
マジョリティではありません
そのマジョリティを退治すること
実はマジョリティへと集まってきた
これがマイノリティの正体であったと
いくらマジョリティを気取った処で拡散される
画期的な個性として拡散されるグロテスクの極み

マジョリティとは
知れば知る程に複雑で怪奇
画一的な無個性はありません
このマジョリティと対峙すること
実はマイノリティが集まってできた
それがマジョリティの正体であったと
いくらマイノリティを気取った処で回収される
画一的無個性として回収されるグロテスクの極み

グロい椿


6. 黒椿(ぐろはる)

変態、狂気、椿事、椿説
誇りだと思っていたのに
変態、狂気、珍事、珍説
罵られると治したくなる
正解、正義、性格、常識
詰まらなすぎて自作自演
正解、正義、正確、正直
誉められたくて自縄自縛

そもそも変態しか居ない
そもそも狂気でしかない
もともと珍事な人間生涯
もともと珍説な人類兄弟
お父さんお母さん祖父母
花弁ぬり潰すは色調補正
先生先輩クラスメイト達
花弁もぎ取るは形成外科

グロい春


7. 黒椿(ぐろばな)

最短かつ最速
で確実な方法
リストカット
傷を付ければ
自己同一性と
それはつまり
独自性なんて
怪我の程度か
軽いとか重い
よくある例か
希少例なのか
そんなところ
無傷は許せぬ
てか有り得ぬ
生きてんだろ

無個性は皆無
無傷は無理だ
何日も掛けて
太陽や大雨や
世話を焼いて
世話を掛けて
愛想尽かされ
害虫に蝕まれ
病気に苛まれ
マヂ傷まみれ
この花まるで
リストカット
星の王子さま
見つけてみて
他とは違うワ

グロい華


8. 黒椿(ぐろつばき)

美しさよりも大切な物事が沢山あるのに
崩れ落ちるより築き上げる方が良いのに
いやだからこそその中で築き上げたいと
美しいものだけ見出したいという二人が
それはきっと変態の成れの果て
普通とか通常の行き着く最果て
これは耽美に取り憑かれた女と
頽廃に魂を奪われた男の話です

ナンセンス、エロス……
ナンセンス、エロス……
何をしているんだい?
貴方との運命を占っているの!
ナンセンス、エロス……
ナンセンス……エロス?
これがお前との運命!
私達の運命はエロスだったの?

ここに一花咲かせましょう──
グロテスク椿


~~~~~~


それは彼の悪の華

あのボードレールと同じ36歳の今

これが私の惡の華

 吾(わ)が十歳迄は平成の十年迄なり、あの平成の一桁の時に感じた汎(あら)ゆる覚束無さ、把握しきれぬ記憶の曖昧さ、すぐノスタルジーと誤魔化されそうになるが、やはりその実態を、感慨を聢(しか)と憶えておきたく、しかし実現できず如何(どう)したものかと、なあなあで生きてきた今日時分、とある作家の平成初期のエッセイを読み、ふと閃(ひらめ)いた。

 昭和を充分に生きてきた者が、平成の一桁を終える時、あゝ昭和も遠くなりにけりと思う時、それは多分に“今の私の令和の一桁”なのであり、“あの時の私の平成の一桁”を掴む鍵なのであると、そうかこの始まったばかりと思っていた令和がじき一桁を終えようとする時、令和の印象の第一を掴まんとする時、時代を味わい味わわされた様な気持ち、それが平成の一桁には無かったのだが、あの当時を味わい味わわされた人の、昭和は遠くなりにけり、平成は闇雲に不穏な未知なりを受け取り、やっと吾が幼少の未知の領域も、その視界不良も晴れてきたのだ。


“降る雪や 明治は遠く なりにけり(草田男)”は昭和一桁に詠まれた句なので、大正の更に前、前“々”時代を懐かしむ処がミソというか、あの句の本来のポイントである、念の為

 その病(やまい)を経験した者だけがその病を好き勝手に語って良い様な特権、にもかかわらず平成を生きた自らが己が平成を語れぬ失権、棄権はしたくないのであるから、その権利を奪還する事が出来た今回、この度は誠にめでたく、物理的には以前と何も変わっちゃ居ねえが、心理的には激変、精神的にも克服されたので今後、物理的にも克服、激変してゆく事だろうと思う、甚(はなは)だ愉快。

 ボウイ様が黒い星になって十年の日に──へ/へ/へ/へ/へ/変身。てか、このブログ随筆も今年の夏でもう十年か……何か一つ、形にしてやろうぞ。なあ?


ボウイ様のグラム前夜“世界を売った男”のオマージュよ(次回の詩の朗読で俺なりのグラム期を演るワ)


2026年1月1日木曜日

令和八年“平生業成”

明けましておめでとうございます
──Nirvana achieved in this life(without waiting for death)



 平生業成



 昨日記したテキストもそうだが、毎年最後の原稿は、いつも切羽詰まって書いている。これで最後だ、これで最後だ、と思いながら書いている。これが最後の一年だ。これが最後の睡眠だ。これが最後のセックスだ。これが最後の食事だ。これが最後の人生だ。



 最後とかいちいち意図して、残り回数とかいちいち意識して、何だか貧乏くさい気もするが、誰よりも大切に丁重に扱う様になる──一年を、睡眠を、セックスを、食事を、人生を──いつも、いくつも、いつまでも、いくらでもあるなんて、そう思っていたら無意識で記憶すらされない。



 今度こそ最後の一年だ。最後なんだから味わい深く、心ゆくまで味わい尽くそうぞ。今だ。最後とは、最たる今なのだ。



 2026、Are you burning?


2025年12月31日水曜日

令和七年“還来穢国”完了

真っ正面から向き合うべきだ、と馬鹿真面目に対峙してきた。大切なものや大切なことに、力の限り向き合い続けた。それが次第に横並びに、いざ語らんと眺め見入った。グラム・歌謡・メタル・野郎で肩並べ、一致団結/一心同体となった様に。親・兄弟・友達・恋人と見つめ合うより、見つめる先の方を見据えた様に。大切なもの・大切なことを理解するよりも、どう理解しているのかを理解しようと考えた。それが理解だと思った、また理解されることが理解するものだと気付いた。音楽はそう考えるし、彼女はこう思うのだと気付いた。そして、そこに行き着いた──客観たる主観に。そうして、ここに還って来た──穢れた国に。



 今年も益々有難う、令和七年“還来穢国”完了。


2025年12月27日土曜日

ゲーテ・ニーチェ・マンライン

ここに時代の悪魔は棲(す)む。ここにまた対峙する良心がある。そしてそのまま己が乞い願う血肉となる(心魂とは血肉の一部である)。



 ゲーテ・ニーチェ・マンライン──これがドイツ文学の背骨である──私は提唱する。

 鏡花・谷崎・三島ライン──これが日本文学の肉體(にくたい)であろう──金の鉱脈だろうグラムだろう。自然主義文学だの白樺派だの、若さ故の無知で手をつけた事もあるが、あれは貧困みたいな栄養失調症の言語の欠乏の思想の無口だ(が、しかし、今のシケた世俗にゃ、ぴたりかもしれぬ)。我が国には既に全てがあるのだ。我が国には何も必要なものなどないのだ……ただ理(ことわり)だけが余計だった:理論、理屈、理想、理性。すなわち、理だけが足りなかった。或いは己が本能の、バルザック・ボードレール・バタイユライン……これはこれでまたやる機会があるやもしれぬから、今回は割愛す。


ファウストの書斎に忍び込むメフィストの図(その当時、机上にある“電話”など存在するはずないんだが、時空を歪ませるの好きなんでね ※そりゃもう悪魔なので)

 ゲーテ・ニーチェ・マンライン──これが我が国の背骨となる──私は提唱する。

 背骨が必要だ。世間からは背の曲がった奴だ、と云われてきた。ないし骨の無い奴だ、と思われてきた。巳年(みどし)野郎の、優柔と不断。蛇みたく長い、優柔および不断。しかし間違えてくれるな、蛇に背骨だ骨だ無いだのと。人間の比にならぬ位、実は数え切れぬ程の背骨があってこそ、蛇なのだと。骨あるが故、ぐにゃぐにゃなのだと、堂々巡りで、堂々と優柔不断なのだと。君は優柔不断の容赦無い無慈悲を知っていて?即断即決など絞め殺してやる!


だんだん横柄な態度を取るメフィストの図(片方の足は馬の脚です ※そりゃもう悪魔なので)

 その為にも背骨が必要だ。もっともっと、しなやかが、したたかで、背骨が要(い)るというのだ。

 36歳が何故に24歳か?60歳を0歳とする習(なら)わしで、蛇が自らの尾を呑む──まさにウロボロす──為で、いずれ還暦しちゃうので、丸くならないと行けないので、もっと曲がるのに、背骨が要るというのだ。

 であるから背骨が必要だ。もっともっと、しなやかが、したたかで、背骨が要るというのだ──私は提唱する。

「ウワバミというものは、そのえじきをかまずに、まるごと、ペロリとのみこむ。すると、もう動けなくなって、半年のあいだ、ねむっているが、そのあいだに、のみこんだけものが、腹(はら)のなかでこなれるのである」
-作者不詳「ほんとうにあった話」より


悪魔メフィストは赤い衣装に身を包んでいたというので、俺が一張羅の“赤いナポレオン(とシルクハット)”をば

 この曲自体は、ビートルズのポール師匠の“イエスタデイ”よろしく夢の中で作った。例えば己がバンド、アンフィニッシュド・バラッズの“あの夏の扉を”というナンバーも夢に見た曲をそのまま形にしたものだったが、手前の場合、理屈こねて作るよりも感覚で作ったものの方がよく褒められる。天啓に打たれた様な無意識が一番強い、そこに理由も何も無い訳で。

 今回は我がデモの中の“夢の中で作ったフォルダ”から、確か夢に見た時は(90年代末〜2000年代初頭頃の)V系バンドで歌う俺が演っていたこのナンバーを選び、ゲーテ・ニーチェ・マンラインその“ゲーテ編”の曲にする事とした……そうして、いざ録り終えたものを聴いてみたらば、V系シンガーの俺は何処へやら、歌い方、ふざけ方、ギターの弾き方、ベースの当て方、その他ミックスやマスタリングの仕方等々、様々な要因によってだろうが、そこに居たのは単なる“グラム歌謡メタル野郎”であった。またしても俺は、俺以外には成れなかった。メフィストとの契約によってファウストは別人の様に若返ったが、若返らせた方のメフィストは何時迄もメフィストでしかなかった様に。


「メフィストフェレスの赫い嘘」
作詞・作曲:Nori MBBM

ラファエル、横にガブリエル
ミハエルと主が見栄張る
穢い綺麗なあの面を
瞠る程に目は大きくなるの

赤は明らかな所以の
誰の眼にも真っ紅な嘘と
赫灼たる光に惹かれ
天に召します贋物の

太陽/天国/神に対応する
闇/夜/月よりも
人間共の醜悪な群れ

人神の破滅のメロディー
メフィストフェレスの赫い嘘
誇大妄想の人間達と
人権?何それ?
人形劇だよ

好きな所から来りて
好きな処へと遣って行く
真っ直ぐ歩むべし人間が
迷い込んだはその入口

或いはこの出口
同じ一つの口
詐欺師による手口
深淵ウロボロす

見るよ・見られているよ
ヴァルプルギスの夜の夢
踊り明かす魑魅魍魎と
此処?何処?
ブロッケンが頂上

盲いらせ!!
第三の女
──“憂い”という名の灰の女
灰神楽
──はい、終わりました
よちよち墓穴へ
己が賭けに勝つ!!

ツィター!!
真っ二つに割られた
とて掻き鳴らすギター
洋琴で夜毎
心満たすな乱せ!!

人身の破壊のメドレー
メフィストフェレスの赫い嘘
古代文明の亡霊共と
心霊?神霊?
人形劇を

見るな・見られてやるな
ヴァルプルギスの夜の夢
踊り狂う初恋の人
エヴァ?リーリト?
ブロッケンが超常



10年前、10万かけて新宿のアトリエで作った自慢のお洋服なんです(by Nori MBBM)

 詩を書くに当たり、10年近く前に完読して分かった気になっていた「ファウスト」をもう一度全て読み返してみたのだが、これがいざ始めてみるとあれやこれや延々終わらぬで、大変しんどい作業であった。若い頃に手こずった下巻・第二部は大分読める様になっていたが、今回も悪夢に魘(うな)されるが如く、赤い悪魔(メフィスト)の熱に当てられてしまった──実際、めちゃくちゃに体調を崩した。

 手始めに以前読んだ中公文庫版の手塚富雄訳を再び完読し、昔つまみ喰い的に読んだ雅(みやび)で格調高い(しかし大正二年の発表当時は“卑俗”と非難されたという)森鴎外訳も今回初めて完読し、その他、気になる場面(特にグレートヒェンの登場する箇所)を中心に、岩波版・相良訳、新潮版・高橋義孝訳、集英社版・池内訳とその訳文を比較検討したのだが、もう曲どころぢゃなくなっちまったよ……やはり私は、手塚訳のグレートヒェンが一番好きだ、健気で優しくて、信心深くて不器用で、そして可哀想で、可愛らしいでは済まされぬ人間としての可愛らしさに溢れている。第一部の最後“牢獄”のグレートヒェンは、訳者によって訳文のニュアンスが大分異なるが、手塚訳の彼女の“気の触れ方”が目も当てられぬくらい気の毒で、しかし庇護欲(ひごよく)をそそられる可愛げもあって、何という感情を手前に抱(いだ)かせてくれたんだねゲーテ君!って感じ。


12月27日は親父の誕生日なんです(by Nori MBBMもとい憲宏)

 60年近く掛けて大作「ファウスト」を書き継(つ)いだゲーテの、節々に見られる積年の哀惜(あいせき)も見逃せぬ。特にファウストの部屋の場面に多いのだが、大切なものたちが経年劣化してゆく、次第に朽ちて滅びゆく、誰にも共有されぬこの侘(わび)しさ、取り返しの付かぬその切なさ──本棚の書物たち、壁に掛けたコートや着物、そして自分自身の肉体に精神。そこをやっぱり、二十代の頃の手前は全然読めていなかった。いや読んだ記憶はちゃんとあったが、確たる実感を伴っていなかった。今の俺をして、こりゃもう“老いたな、父上(by ギレン・ザビ)”って感じ。


父(12/27生)・母(12/28生)の誕プレに酒やCDレコードなど贈る(名盤“ケルン・コンサート”は父も当然持っていたそうで、若かりし頃にアパートでLPを擦り切れるほど聴いたのを思い出す、とお返事を頂いた)

 そうだ大人になってからガンダムを観ると、敵側のジオンの軍人とか連邦側の汚い大人達の言動も、それはそれで理解できる様になると云うが、この度「ファウスト」を読み返してみて、(グレートヒェンとは異なる意味で)メフィストがまあ健気で可愛くて、ギリシャの魔女や化け物達に馴染めないの分かるよドイツのブロッケン山に帰りたくなるの分かるよファウストとか天使達に苛立ちまくるの分かるよ分かるよ分かるよ……だから今回メフィスト視点で歌詞を認(したた)めたのであるが、すっかり世俗の悪に染まっちまったのかね俺ら、いや“汚れつちまつた悲しみに(by 中原中也)”って感じ。


1808年、ナポレオンはゲーテと面会した際に「此処に人有り(Voila un homme)」と云ったそうだが、メフィストもファウストに劇中で同様の事を述べていなかったかしらん?ほら、こんな一張羅の“赤いナポレオン(とシルクハット)”を身にまとって!!

 さて、次回はゲーテ・ニーチェ・マンラインその“ニーチェ編”であります。その間にやらねばならぬ別件も沢山あるから、いつ発表できるか分からぬが(来年中に必ず演ってやるぞ、とは思っている)、久し振りに「ツァラトゥストラ」も一から読み返さねばならぬ。目下、鋭意制作中(デモ録音済み)であるが、これも夢の中でニーチェと共に“見た”自信作なのである。はい、深淵/深淵。それに飛び立つ鳩(はと)?そして我がディオニュソス!!


巳年生まれの息子が、巳年生まれの父親の誕生日に、愛を込めてはウロボロす(いつかの母親の誕生日にはイエモンのカバーを演ったグラム歌謡メタル野郎)


2025年11月25日火曜日

愛は感覚で在り、論理に非ず(腹を割って、頭を飛ばして)

三島・生誕100年の年に、そして没後55年の日に(大音響でワーグナーを聴き、大画面で能舞台を観る)

地頭の良い人ならば、即ち小さい頃から感覚に冴え、それ自覚的ないし論理的に統(す)べ、大人達の意図や意向を汲み、人生の地平遥かを見通せる者ならば──生涯コスモス的に──カオス的なものを退(しりぞ)けてゆけば良いものを、三島由紀夫は自作品や実生活でそれをしなかったから、むしろよりカオスへと向かいながら、コスモスを目指したから、私は彼を真(まこと)に愛しているのである。実に三島を愛しているならば、華麗なる修飾(しゅうしょく)が理路整然と展開される偏執的な文体を愛するだけでなし、彼の生涯の破綻(頽廃)、境涯の色盲(耽美)をこそ愛さねばならぬ……結局はこの一貫性の無さが彼を忌(い)み嫌う人々の、その最大の根拠にも成り得る訳だが。

静かにせい
静聴せい
話を聞け
男一匹が命を懸けて諸君に訴えてるんだぞ
いいか
いいか

 彼の悲愴な雄誥(おたけ)びが、脳裏に焼き付いて離れぬ。

これで俺の自衛隊に対する夢は無くなったんだ
それではここで俺は天皇陛下万歳を叫ぶ

 これが解せぬなら哀れだ。三島の哀れだ。日本の哀れだ。野次馬達の哀れだ。私は三島の思想にさして共感しない(“七生報國:しちしょうほうこく”の鉢巻をする気概はない)が、彼の最期の訴え、真っ直ぐで、産まれたばかりの様な、後先考えられぬ切実さには、甚だ共鳴する者である。

 馬鹿ぢゃねえの、市ヶ谷駐屯地の決起とか決起にもなってねえ、不発に終わった・出来の悪い・あんなやっすいドラマに感動とか、あんた騙されやすい人だね、楯の会とかカルトぢゃねえか等々、野暮な異論・反論、茶化し・冷やかしは様々にあるだろうが、つまりその世間の冷笑派の意見は“下らない茶番劇だと思い、それに真面目にショックを受けている馬鹿な大人が多いのにあきれた(月刊誌・諸君!99年12月号より)”という高名なる哲学者・浅田彰御大(おんたい)の一言に集約されると思うが、ならばそのスタンスでこちらも売られた喧嘩を買おうか。


愛は感覚で在ると(腹を割って)

 例えば三島由紀夫の割腹は、最上のスノッブであると。不可解な死、解(げ)せる何某かの人智があると。君にはそれが無かった、というだけの話で。「構造と力(1983)」なぞ破り捨ててしまえ、むしろこちらの方が“構造と力”だ、と解せぬ生を無に帰してしまえ。


愛は論理に非ずと(頭を飛ばして)

 市ヶ谷駐屯地での最期の演説の文字起こしとか、その際にバルコニーから撒かれた檄(げき)の全文の写しとか、ググればすぐに出てくるし、2、30分あれば事の経緯まで含め全て読めるから、読んだ事がないなら読んでみてよ。十年以上振りにまた読んで、いまだ解せぬ処はあるものの、彼の最期に感極まっちまったよ。

 私はあれを彼の純然たる有りの侭の姿と好意的に受け取るし、或いは悪意を以て否定的に取ったとしても(前述の通り)最上のスノッブとして機能する事を疑わず、それ故に三島由紀夫を愛すのである。この愛は宗教的なものではなく、ましてや右翼/左翼だ政治的なものでもなく、純粋に耽美・頽廃主義者としての愛である……そりゃ余計に君等に危(あや)ういか?


プレゼントをくださった友達とは残念ながら予定が合わず、独り「憂国」鑑賞会を催した(天吊り型プロジェクターと爆音ウーハーシステムのある処で)

 映画「憂国」、先ほど初めて鑑賞いたしました。良かったです、というよりも終生(しゅうせい)忘れ得ぬ一本となるだろう、という感想であります。原作小説は云う迄もなく三島短篇で随一(ずいいち)の、いや人によったら三島全作、文学全体で一番の傑作であろうが、あの壮絶な文体の前ではこの映像は、成る程と感心するよな、そんな壮絶でありました……ただそこはさすが三島、後(のち)のATG的前衛表現の嚆矢(こうし)となったらしい、時代を突き抜けるよな奇怪なる映像が、時世(じせい)の覆う一面の黒々しい帳幕(ちょうばく)を突き破るよな幾筋もの光が、エロスが、グロテスクが、ナンセンスがありました。“今も全く古びない”と云えば嘘になる──生まれてこの方この形容が腑に落ちたこと一度も無いのだ──が、撮られて然るべき作品であった。三島文学が常に周りから浮いてしまうのと同じ道理で、つまり三島がそこにちゃんと居る事によって、確実に浮世離れした、時を超えた映画となっていた。であるから撮られて然るべき、残されて然るべき作品であった。國(くに)を憂いた男/女がスクリーン一面に、舐め合い/吸い合い、汗を流し/涙を流し、真黒な血しぶきを上げ/真白な腸がにゅるにゅる今日(こんにち)は、そりゃ三島の奥さんも封印したくなる白黒無声映画/こりゃ世にもおぞましいモノクロサイレントフィルム、で御座居ました。


今年五月の誕生日プレゼント、ゲーテやらニーチェやら源信やら親鸞やらで頭一杯の我、中々その封を開ける事が出来なかった

 にしてもだよ?この映画の4年後に、この映像の中の芝居で演った事を本当に、現実でやるんだから!至誠。




2025年10月15日水曜日

平成に出逢い続ける男


平成とは、何だったろう──私が0歳だった時、或いは数え年で1歳だった頃、平成は元年で、若(も)しくは平成一年であった訳で、幼少期の無鉄砲は、そのまま平成一桁の無鉄砲であったし、十代の分かり合えぬ暗黒は、平成十年代の分かり合えぬ暗黒に違いなかったし、二十代の自分のあの未熟さに至っては、平成二十年代のあの未だ熟さぬ時分(じぶん)とも重なり、三十代でやっとこさ大人となりて、そうして一つの時代はあっけなく終わった──平成とは、青春であったのだ。

 青春。若さ、初々しさ、爽やかさ、甘酸っぱさ、恥ずかしさ、苛立たしさ、焦(じ)れったさ。そんなの昭和にあるはずがない、だってまだ生まれていない。こんなの令和にあるはずもない、だってもう生きていない。平成の放課後。



 おっさんの感傷かよ、平成の頃に、昭和の奴ので見飽きた癖して、若い奴にも繰り返すのかよ。そんなんぢゃねえって、いや同じ穴の狢(むじな)だって、“平成の放課後”とか云って、この曲を聴いてくれって。そんなんぢゃねえって、ガリ勉にも不良にもなるなって、友達も恋人も勝手にしろって、人の青春をなめんなって。徹底的に独りだ、圧倒的に惨(みじ)めだ、グローバル化だ笑わせんな、ローカル化を笑うな。見える横より見えぬ縦、ローカルを深く突き抜けたらば、圧倒的にグローバルだ、徹底的に独りの方が。日常、普遍、非日常、不変。さっさと繋がっちまえ世界中、一人ぢゃ役に立たねえ約束を、一人ぐらいは守り続けるから、これはそんな曲であります──ニーチェの誕生日に、青二才の実らぬ片想いの様な、青春とか思春期の全て、平成に出逢った全てのものをここに閉じ込めておく。前回の楽曲「六界廻り」は拙著“六界記紀”と、今回「平成の放課後」は“平成総体”とそれぞれ対応しており、その部分も是非お楽しみ頂けたらと思う、良くも悪くも意味のある事しかできぬ人間だから(無意味でさえも、無意味である、という意味が、必須条件で)。

 訳わかんねえ事を書いてやがる。何故って、いつか理解される日がきっとやってきますから。やっと時代が追いついた。いつもそうだ、やっと時代に追いついた。平成は昭和っぽかった。昭和は大正っぽかったし、令和は平成っぽいんだろ。だってほら、大正は明治っぽかったし明治は江戸っぽかったし江戸は安土桃山……もういいよ。平(たい)らかに成る。どこか、どのへんが?平らかには成らぬ。どうやら後者の略だった様だ、平成は!一人でに独り直覚(ちょっかく)す。今、その放課後にて。



 平成元年生まれ、昭和と平成の節目、切れ目。これほど分かりやすい時はない年に産まれたのかもしれぬが、つまり元年以外の数年、十数年、数十年生まれの人からすれば丁度の区切りに生まれたのかもしれぬが、当人にしてみれば誰よりも中途半端なタイミングである。昭和の人々には新しく、平成の人々には古いのである。

 自分なんてものは中途半端な存在だ。自分がこうなる迄の自身を知っていて中途半端なのだ。逆に他人というものは常に完全無欠でしかない。誰かの卑(いや)しさも厭(いや)らしさも知る由(よし)がない。誰かにとって令和七年現在は令和の七年の現在でしかない。ならば“平成の放課後”なんてほざくのは中途半端がさせること。生活というのは中途半端がすること。生きる事は推移、経緯、経過、過程、可変、変遷、変容、漸(ようや)く、暫(しばら)く、暫定、措置、発展、途上、途中……中途半端でしかない。ならば“死んでやる”なんてほざくのは完全無欠がさせること。人生というのは完全無欠がすること。そういう意味で、全然死ねない、俄然(がぜん)死なない、死ぬ訳がない。という訳で、平成の放課後。



 ウィンドウズ95で世間が賑(にぎ)わっていた頃、父の買ったマッキントッシュに入っていた音ゲーやらCD-ROMのPCゲーム──「鉄マン」とか「中央線201系」ってソフト、ふと思い出した──に夢中となったのも、次の年に小学校へと入学し、第三使徒・サキエルが夜の第三新東京市で繰り広げる理不尽な暴力と破壊──初号機の左腕をバキリとへし折り、頭をむんずと掴んだまま光線状の槍で右眼を貫いたエロ・グロ・ナンセンス──に興奮したのも、更にその次の年に小学2年生へと上がり、“エキセントリック少年ボウイのテーマ”を毎日ノリノリで──♪同棲相手は~と口ずさんでいたら、母親に唐突にキレられてびっくりした──その意味も分からずに熱唱していたのも、全ては平成の新たなる政治・経済に対するファック、しかしそれは同時に平成の新たなる科学・技術や社会・文化によるファックいやハック、“平成とか俺ら知らねえよ”というその態度、その態度こそ紛(まご)う事なき平成、しかしそれは紛(まぎ)らわしに紛らわしただけの平成、今はっきりと聴き取れる、このリフ、アルペジオ、9カポ、単音、クリーントーン、夢のあと、平成のあと、やっと形になった、曲となった。


 頭ん中で延々ループするスピッツやジュディマリのポップでキャッチーなシングル曲と、午前中の微妙な時間に再放送されるヤニ茶けた昭和アニメに内容の無い事だけがその内容である芸能ワイドショーと、校舎の窓から見える工場地帯の煙突に濁(にご)ってしまって灰色っぽい空の人工的な青と白と太陽の鈍(にぶ)い光と……声しか知らぬ区役所のいつもの女性が街の拡声器から、光化学スモッグ注意報をアナウンスしたあの日。