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18世紀後半のドイツにて、理性的かつ抑制的な啓蒙主義に対するカウンターとして、情動ないし衝動の解放その奔放を描いたゲーテ、シラーなどが現れた。「若きウェルテルの悩み(1774)」はその筆頭であるが、ゲーテは同時期に大作“ファウスト”の原型となる「初稿(ウル)ファウスト(1775頃)」をも書き上げており、まさに“疾風怒濤”の創作期に入っていた。
20世紀初頭の日本では、これまた論理的かつ客観的に真実を描こうとする自然主義文学が猛威を振るい、その無味乾燥な野暮を退けるかの様に永井荷風、谷崎潤一郎らが──甘美で粋な、豊饒極まる歪な世界で以て──ぬるりと現れた(「異端者の悲しみ(1917)」の最後の一節にその自負が表れている、だから俺は谷崎が大好きだ)。俗に“耽美・頽廃主義”と云われるものであるが、その影響は文学のみならず、後(のち)の音楽において“グラムロック”や“ヴィジュアル系”として華開く事となった。
オスカー・ワイルドはボウイ&ボランだけでなし、というかそれよりも先に三島&谷崎に愛されていたし、“ベルリン三部作”時代のボウイは自ら描いた三島の肖像画を部屋に飾っていたし(レプリカのポスターとかで良いからアレ欲しいねん)、さらにボウイ&三島(&吉井父)が吉井さんに「ジャガー・ハード・ペイン(1994)」を作らせたのだし、であるからして
俺はこのアルバムが一番好きなんだ 、一番って世界中いや全宇宙の中の一番だから、死ぬ迄いいや死んでからもそういう事にしておくから、いいか、今日からだ、分かったか、と十代の終わりに自らを脅迫し、ここにグラム歌謡メタル野郎と相成りまして御座候ふ……いつの間にやら手前の話へと脱線しちゃったが誕生日だから許せ!
こと現在はどうだろうか?21世紀初頭のこの国は?音楽なんざはいざ知らず、こともあろうに文学が、芥川の名を冠する賞を受けた作品の数々が、その稚拙な精神性や文体の無さが、作品を最後まで読ませてくれない。何なら奇を衒った作品タイトルやエモい装丁だけで、一頁も読ませてくれない。本屋に行って新刊発売を喜ぶにしても、夢野久作だ澁澤龍彦だ存命ぢゃない、町田康だ中原昌也だ若手ぢゃない。シティーポップだエモいだチルだもう終わりだとしても、文学の方のこの文体の喪失、思想の貧困はいつ終わるのか──まさかこれから更に隆盛を極めるというのか?山頭火みたく世捨て人になりたくもなるが、そうはさせない……清廉潔白とか、馬鹿の一つ覚えに何でもかでも漂白させない。
ショーペンハウアーの“ミットライト・ペシミズム(共苦・厭世主義)”よりも、ニーチェによる“ディオニージッシュ(ディオニュソス的なもの)”が生ぜしめる、この男の性の肯定!ドグラティック・ドグマ。
釈尊の“一切皆苦(いっさいかいく)”よりも、親鸞による“悪人正機(あくにんしょうき)”が生ぜしめる、その女の性の肯定!マグラティック・ドグマ。
シュトゥルムとドラングその二つの勢力による、ドグラとマグラこの二つの精力的なる、二つの性による生のドラマ、たかが一つの思想たる、されど一つの強靭たる、単なるドグマ!ドグマティック・ドグマ。
現代に奪還してやる、いま五十一の自由律短歌で──
「シユトルム・ウント・ドラング」
by Nori MBBM
天界が別世界この新世界たる下界に男ありけり
女呼ばふ夜這ひの天上が月と太陽も無かりけり
天界が俗世界この下界に男いと暗きに来けり
女夜這ふ天上が月も鬼はや一口に食ひてけり
獨隅羅と言ひけれど疾風の騒ぎにえ聞かざりけり
曼隅羅と足摺りをして怒濤に啼けども甲斐無し
疾風怒濤か何ぞと人の問ひしとき獨隅曼と答へて消えなましものを
──シユトルム・ウント・ドラング
馬鹿寒いと憤死しそうなつた三十五の冬いちばん老けてた
死んだヱアコン死んだテレビ死んだ洗濯機と俺ら皆死んだ振り
今度この酷寒に狼狽へるは七十の冬きつと死に際
その寿命の根拠はダンテが云つてたんだつて去り際
栄華を極めた肉塊の老いと若きが交ざり合ふ処いま
手前のいちばん美味しい時に喰はれたかつた恋人よ
恋人達でなし恋人その一人/\の情交ホルマリン漬け
挿れながら御々足を頬に当て踏まれたい谷崎みたいな心持ち正常位
二人夢見た仏教伝来ヰンド料理中華料理食べよ砕けよ
十一時開店の中華料理屋目掛け目醒す目覚まし体内時計
十二支の一周以上も高円寺に居りや物価だつて一点五倍
食べ放題の中華焼き蕎麦辛うなつたは御代はりさせぬ為
二度も逢はぬ奴と交わす無意の杯ラヰブハウス三文芝居
ラヰブも宅録もせんでギタア弦張り替へ年に一回な倍音
ベヱスなぞ中古で買つた十年前の弦そのまゝ化石な低音
買ひたい買へない立ち読み立ち寄る古本屋にてこれ作歌す
壱萬円数枚で足許見るなよ春日井建の未青年
三島の自裁が緑素粒の大空の斬首にまた別のヰメヱヂを齎す
これはマルドロヲルの自由律短歌なんだヰジドヲルヂユカス
断頭台の上での俺と三島の必然の出逢ひを立ち読みの無料で済ます
三島の自裁が憂国のクラヰマツクスにまた別のヰメヱヂを齎す
カアトの自殺が各楽曲のgunの一語に特別なヰメヱヂ齎した様に
好きなレコヲドが一枚も載らぬヂスクユニオンの壁見上げ
死んだり捕まつたりすつと高騰する中古レコヲド皆御手上げ
であるから二進も三進もゆかぬニツチなレコヲドが手土産
好きなレコヲドが一枚も載らぬヂスクユニオンの壁また見上げ
ゴヲルデン街の方へ向かふまで俺が安レコヲド割るなよ君たち
芸道の神お出掛けしてゐて逢へなかつたわ花園神社
それでもぢつと佇む狛犬狛犬狛犬さんに挨拶と言伝る
信仰と不信感と我が親鸞とニヰチヱ鬩ぎ合ふ
山頭火と放哉と我がギヨエテとシルレル競り合ふ
五七五七七から噴き出すは型破りなシユトルムウントドラング
己がリヅムは御頭の意のまゝ波長の合ふた破調のスラング
句跨りや女跨りやで散文詩と見分けの付かぬシユトルムウントドラング
シヤルロツテやグレヱトへンや二条の后を横抱きに奪ひ去るシユトルムウントドラング
せめて死後の世界で詩世界で奪ひ返すがシユトルムウントドラング
──シユトルム・ウント・ドラング
浚ひながら渫へ晒し曝け出せ真白き疾風怒濤
海行かば攫へ吉日旭日とかつて己が墜としたもの
腹の血潮の黒し赤しの悟り無きが全き真白に塗り潰せ
山行かば拾へ卯月皐月を跨いだ夜に落としたもの
簒ひ去つて遺して行け心の至る処に有り余る白だけ
たゞ真心の縁に白き図柄の憶えがある人さうするだけ
忠誠やヱロスに見紛ふぢやなしヱロスや忠誠が見紛ふぢやない
己が一代は似るぢやなし己が一代にぞ似たりける
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「なんじら神のごとくなりて善悪を知るに至らん」
(「旧約聖書」“創世記”第三章・五節より)
獨隅曼(ドグマ)も知らぬ獨隅羅(ドグラ)は、曼隅羅(マグラ)に捧げし青春の為に死んだ。
獨隅曼を閲(けみ)した獨隅羅は、曼隅羅と林檎を食べた為に死んだ。
獨隅曼のその実(じつ)はエデンの園の、禁断の実(み)と蛇は知らなんだ。
獨隅曼の園の町の蛇は、その蛇を見たのが四回目だと云った──
“エリチス・シイクト・デウス・スチエンテス・ボヌム・エット・マルム”ドグマッ