平成とは、何だったろう──私が0歳だった時、或いは数え年で1歳だった頃、平成は元年で、若(も)しくは平成一年であった訳で、幼少期の無鉄砲は、そのまま平成一桁の無鉄砲であったし、十代の分かり合えぬ暗黒は、平成十年代の分かり合えぬ暗黒に違いなかったし、二十代の自分のあの未熟さに至っては、平成二十年代のあの未だ熟さぬ時分(じぶん)とも重なり、三十代でやっとこさ大人となりて、そうして一つの時代はあっけなく終わった──平成とは、青春であったのだ。
青春。若さ、初々しさ、爽やかさ、甘酸っぱさ、恥ずかしさ、苛立たしさ、焦(じ)れったさ。そんなの昭和にあるはずがない、だってまだ生まれていない。こんなの令和にあるはずもない、だってもう生きていない。平成の放課後。
おっさんの感傷かよ、平成の頃に、昭和の奴ので見飽きた癖して、若い奴にも繰り返すのかよ。そんなんぢゃねえって、いや同じ穴の狢(むじな)だって、“平成の放課後”とか云って、この曲を聴いてくれって。そんなんぢゃねえって、ガリ勉にも不良にもなるなって、友達も恋人も勝手にしろって、人の青春をなめんなって。徹底的に独りだ、圧倒的に惨(みじ)めだ、グローバル化だ笑わせんな、ローカル化を笑うな。見える横より見えぬ縦、ローカルを深く突き抜けたらば、圧倒的にグローバルだ、徹底的に独りの方が。日常、普遍、非日常、不変。さっさと繋がっちまえ世界中、一人ぢゃ役に立たねえ約束を、一人ぐらいは守り続けるから、これはそんな曲であります──ニーチェの誕生日に、青二才の実らぬ片想いの様な、青春とか思春期の全て、平成に出逢った全てのものをここに閉じ込めておく。前回の楽曲「六界廻り」は拙著“六界記紀”と、今回「平成の放課後」は“平成総体”とそれぞれ対応しており、その部分も是非お楽しみ頂けたらと思う、良くも悪くも意味のある事しかできぬ人間だから(無意味でさえも、無意味である、という意味が、必須条件で)。
訳わかんねえ事を書いてやがる。何故って、いつか理解される日がきっとやってきますから。やっと時代が追いついた。いつもそうだ、やっと時代に追いついた。平成は昭和っぽかった。昭和は大正っぽかったし、令和は平成っぽいんだろ。だってほら、大正は明治っぽかったし明治は江戸っぽかったし江戸は安土桃山……もういいよ。平(たい)らかに成る。どこか、どのへんが?平らかには成らぬ。どうやら後者の略だった様だ、平成は!一人でに独り直覚(ちょっかく)す。今、その放課後にて。
平成元年生まれ、昭和と平成の節目、切れ目。これほど分かりやすい時はない年に産まれたのかもしれぬが、つまり元年以外の数年、十数年、数十年生まれの人からすれば丁度の区切りに生まれたのかもしれぬが、当人にしてみれば誰よりも中途半端なタイミングである。昭和の人々には新しく、平成の人々には古いのである。
自分なんてものは中途半端な存在だ。自分がこうなる迄の自身を知っていて中途半端なのだ。逆に他人というものは常に完全無欠でしかない。誰かの卑(いや)しさも厭(いや)らしさも知る由(よし)がない。誰かにとって令和七年現在は令和の七年の現在でしかない。ならば“平成の放課後”なんてほざくのは中途半端がさせること。生活というのは中途半端がすること。生きる事は推移、経緯、経過、過程、可変、変遷、変容、漸(ようや)く、暫(しばら)く、暫定、措置、発展、途上、途中……中途半端でしかない。ならば“死んでやる”なんてほざくのは完全無欠がさせること。人生というのは完全無欠がすること。そういう意味で、全然死ねない、俄然(がぜん)死なない、死ぬ訳がない。という訳で、平成の放課後。
ウィンドウズ95で世間が賑(にぎ)わっていた頃、父の買ったマッキントッシュに入っていた音ゲーやらCD-ROMのPCゲーム──「鉄マン」とか「中央線201系」ってソフト、ふと思い出した──に夢中となったのも、次の年に小学校へと入学し、第三使徒・サキエルが夜の第三新東京市で繰り広げる理不尽な暴力と破壊──初号機の左腕をバキリとへし折り、頭をむんずと掴んだまま光線状の槍で右眼を貫いたエロ・グロ・ナンセンス──に興奮したのも、更にその次の年に小学2年生へと上がり、“エキセントリック少年ボウイのテーマ”を毎日ノリノリで──♪同棲相手は~と口ずさんでいたら、母親に唐突にキレられてびっくりした──その意味も分からずに熱唱していたのも、全ては平成の新たなる政治・経済に対するファック、しかしそれは同時に平成の新たなる科学・技術や社会・文化によるファックいやハック、“平成とか俺ら知らねえよ”というその態度、その態度こそ紛(まご)う事なき平成、しかしそれは紛(まぎ)らわしに紛らわしただけの平成、今はっきりと聴き取れる、このリフ、アルペジオ、9カポ、単音、クリーントーン、夢のあと、平成のあと、やっと形になった、曲となった。
頭ん中で延々ループするスピッツやジュディマリのポップでキャッチーなシングル曲と、午前中の微妙な時間に再放送されるヤニ茶けた昭和アニメに内容の無い事だけがその内容である芸能ワイドショーと、校舎の窓から見える工場地帯の煙突に濁(にご)ってしまって灰色っぽい空の人工的な青と白と太陽の鈍(にぶ)い光と……声しか知らぬ区役所のいつもの女性が街の拡声器から、光化学スモッグ注意報をアナウンスしたあの日。




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