俺はファンクミュージックに疎い。これからもずっとそうであろうと思う。何故か──?
ファンクって踊らせる音楽だから。いや、じっと黙って聴いていても良いだろ、って話ぢゃなくて。音楽の話なんで、音を楽しむ話なんで。そういう意味で、ファンクは俺に難しい。
例えば、黄金期のJBでも良いしさ、じゃがたらでも良いや。伝説の名演とか名盤とか云われて、いざ聴いてみたらば、これが全然ピンと来ない。「ふーん、ガシャガシャ演ってんなあ」とは思う。ファンクが嫌いなのではない、嫌いな音楽は他に沢山ある──チャートに溢れるメンヘラ気取りのオナニーソング、お前だよお前!──そうぢゃなくて本題、ファンクの本質がこれ、掴めない。評論家のお偉方が凄い云うから凄いんかな?と無理矢理に自己洗脳しながら聴いてみる。だけどもどうして一向に、ちっとも露(つゆ)ほど感動できない。
そんで今、リアルタイムで演奏されるファンク、現代のファンクミュージックを聴いてみたらば、「これは本当にすごいアルバムだよね。」と暗黒大陸じゃがたらの帯のタタキの近田春夫みたく言うしかなかった。感動した。踊りたくなった。即ち、ファンクそのものだった。
ファンクの本質を掴んでしまった。太陽をつかんでしまった。サブリナ・ヘヴン──ノー・ヘヴン。ファンクの本質とは?一、ひたすら踊らせること。一、ひたすら繰り返すこと。一、ひたすらBメロだCメロだサビだ拒絶すること。だから凄いのだ、敢えてそれを演る事が。だから凄くないのだ、過去の名演や名盤は、敢えなく繰り返して終わるだけなんだ。で、これの何が、凄かったのよ?!と言いたくなる程、繰り返して終わるだけなのだ。
俺はファンクミュージックに疎い。これからもずっとそうであろうと思う。何故か──?
これからも、ずっとも、何もないのがファンクだから。今ここで、踊るべき、踊らされるべきが、ファンクだから。踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損、だから。ファンクはさながら阿波おどりなり、高円寺阿波おどりは高円寺民ぢゃない奴等の集いなり、手前のゴミも持って帰れぬならやめて欲しいなり。騒ぐな──り
凄い事を云う暇があるなら、踊れ。凄い事を云う頭があるなら、放れ。ファンクはさながら、平凡なり。
町田町蔵の「腹ふり」でも聴くか!──いま、聴いている!──いや、全然踊れんぞ!──けど、何か凄い気はする!──僕と共鳴せえへんか!織田作之助か!そういえば彼の小説も、凄いと思わせない処が、凄いと思わざるを得ない感じ、あるんだよな!──あゝ平凡、平凡。

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