彼は半ばベッドの上に起きあがったような姿勢で、巨大な肩と堂々たる頭を客の方へ向け、片腕を掛布団の上に伸ばし、雀斑(そばかす)のある船長のような手を肌着のシャツの袖口のところからまっすぐに立て、親指と人差し指とで例の円い輪を作り、その横に三本指を槍のように立て並べていた。
-トーマス・マン
僕のよく行くスーパーにこんな案内が出ていた──「大型書籍コーナーできました」──食料品と簡素な日用雑貨の他、週刊誌と少年誌くらいしか売っていなかったけどな。僕はその新しく貼られた案内の導くままに、普段足もとめない店の奥の方へ、片隅に見覚えのない小さな戸口(とぐち)が一つ、通り抜けるとプラモデル売り場だった。
ここはプラモデルも売っていたのか、一応散策してみると、まあ目星(めぼし)いものそのつまりレア物は無かったのだが、二次大戦中の軍用機、戦車、戦艦だ、自動車だ、ロボットだ、果ては美少女フィギュアだ、しかし辺りには僕の他に誰一人として居ない。いかんいかん、僕の見たいのは大型書籍コーナー、文庫本の小説が欲しいのだ。他に使うお金は、持ち合わせていない。
売り場の端まで行くと、また別フロアへの通路があり、入ればそこは恋人売り場とな。男性はこちら、女性はこちら、と棲(す)み分けがされていて、僕は一応、女性を好(す)いているものだから、女性が売られている方の巨大な陳列棚へ向かうと、色白、色黒、低身長、高身長、姉、妹、おばさん、おばあちゃんと、くる。これはアンドロイドか、はたまた精巧なダッチワイフか、と瞬(またた)く間に思われたが、訳ありの、監禁された生身の女性達らしい。僕は並ぶ女体の壮観の、とりわけ妙に惹かれる顔つきの、奧二重(おくふたえ)の福耳の、両の頬の赤っぽい、初恋の人に似た一人の前に、成る程それは初恋の人その人に違いなかった。
「なんでここにいるの」──こちらが訊きたい位だったが、彼女に先にそう云われて──「いや、いつも来るスーパーなんだけど、こんな売り場があるなんて知らなくて、初めてなんだ、けど、誰かに閉じ込められているの?」──と陳列された彼女の値札を見ると千九百八十九万円、税抜き。「連れて行って、早く万引きして」と彼女に手を握られると、まったく全ての頭という頭に血がのぼり、「うん」と訳も分からず返答し、正直勃起していた。「高価な品物なのでお手は触れないでください」とどこからか店員がやって来ると、彼女はそっと僕から手を離し、また一切しゃべらなくなり、勃起は勃起でおさまってしまい、黙ってこのフロアを離れる事とした。危うく売春しかけるところだった。人の意志など脆弱だ。いや、売春の万引き、無賃売春か。しかし売春はしない主義だ、売春するならいっそ死んだ方がましだ。産業構造的に、自分の手だけは汚さねえ、そんな誰よりも汚ねえ奴等の懐に、金、金、金の入るのが、何より気に喰わねえ。いかんいかん、僕の見たいのは大型書籍コーナー、文庫本の小説が欲しいのだ。他に使うお金は、持ち合わせていない。
更に奥の階段を降りると、薄暗い地下へと通じており、そこは死人売り場とな。何だここは人身売買ばかり、スーパーはスーパーでも、とんでもなくスーパーだ、今度は一体誰が居るのだ?ざっと、エドガー・アラン・ポー、シャルル・ボードレール、三島由紀夫、カート・コバーン、アベフトシ、遠藤ミチロウ。凄えな、サイン欲しいな、ライヴ観てえな、しかしホルマリン漬けだな、ぷかぷか浮いて、微動だにしねえな。百八十四万九千百七円、百八十六万七千八百三十一円、千九百七十万千百二十五円、十九万九千四百四十五円、二百万九千七百二十二円、二百一万九千四百二十五円、税抜き。誰が値段つけてやがんだ、こんなの言い値(ね)だろう、価値など知らねえ癖に──「お客様なにかお求めでしょうか」──さっきの店員が近付いて来ると、その無頓着や無理解に腹立たしくなり、早足で巨大な商品棚をくるくると巡り廻(めぐ)って、意味もなく迂回を繰り返して、店員が見えなくなった処で、ふと天井に続く鉄の梯子を見つけた──「30階:大型書籍コーナー」。30階とな。そんな高層階が隠されていたとはな。
冷たい鉄の梯子に手を掛け、足を掛け、昇りゆくと案の定──「お客様そちらに何のご用ですか」、「書籍が見たいのです」、「お客様の見たい書籍は何ですか」、「何だって良いぢゃないか」、「そうは云っても私が案内いたしますよ」──店員が私の足に手を掛けてきた──「やめてください離してください触らないでください」、「お客様の探しているものは何ですかと訊いているのです」、「ダンテの“神曲”とその解説本でもあれば、とは思うが、何だって良い、出逢いたいんだよ、手に取ったら欲しくなるから」、「ダンテですか、ありますよ、解説本も、上下巻の詳しいヤツが、だから私が案内しますよ」、「えい、しつこい、足を掴むなって」、「お客様お客様」──店員はバランスを崩し、遥か地上のプラモデル売り場、恋人売り場へ真っ逆さま、巨大なコンテナが落下した様なドンと云う轟音と共に叩きつけられ、そのまま床まで突き破り、地下の死人売り場にて、多分絶命してしまった様だ。白眼をむいたまま、口からは赤いものが垂れているのが見えた。
僕はそれ見下ろしながら、こんな高い処まで来ていたのかと、一方で解放感もう一方では焦燥感に駆られてしまい、再び上を目指し、あともう少し、もう少しで、大型書籍コーナーのフロアに到達す、前人未到の30階へ、すると、ふわり、力なく、鉄の梯子が風に揺れるよに、吹かれるよに壁から剥離(はくり)し、ボルトがひょん、ひょんと抜け落ち、梯子めりめり剥がれ落ち、僕は鉄の棒を掴んだまま重い頭を急転直下、天地無用、逆・店内案内図、29階:黄泉(よみ)売り場、28階:孫(まご)売り場、27階:出産売り場、26階:結婚売り場、25階:出世売り場、24階:内定売り場、くだらん階数ばかり走馬灯なり、10階:ドリームキャスト売り場、6階:セガサターン売り場、行きたかったなり逝きたかったなり、梯子はU字に曲がり、突き破られた床下の、死人売り場へ一直線、既に息絶えた店員に梯子の先端が突き刺さり、ぶしょおゝん、ぐしゃあゝ、べちゃらゝあん、胃、腸、内臓、臓物(ぞうもつ)祭り、血液の海にダイヴ、ダイヴ、大分、ダイヴ・イン・ミー、Incesticide、疼痛(とうつう)、激痛、我、多分絶命、否、否、三たび、否……絶対絶命。
いかんいかん、僕の見たいのは、大型書籍コーナー、文庫本の、小説が欲しいのだ……他に使うお金は、持ち合わせて、いない……。
裏・平成三十階段に続く
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