2022年5月4日水曜日

「いき」の創造 –対安吾論–

手前を語るに、何故に今さら安吾か。対安吾論と云ったって、もうこの世に居ない人ではないか。そうか死人に口無し、手前さては腰抜けだな。ご明察、ご名答。より正確には対安吾ないし安吾ならざるものにとって、安吾たりうるものは安吾の時代まで遡(さかのぼ)らなければ皆無であったということ。安吾以前は別として、現代に骨のある対私が居ないということ。

 それでも私に突っ掛かって来る奴というのは──

葉隠れ論語によると、どんな悪い事でもいったん自分がやらかしてしまった以上は、美名をつけて誤魔化してしまえ、と諭(さと)しているそうだけれども、僕はこれほど堂々と自我主義を押通す気持はない。もっと他人というものを考えずにもいられないし、自分の弱点に就て、常に思いを致し、嘆かずにもいられぬ。こういう葉隠れ論語流の達人をみると、僕はまっさきに喧嘩(けんか)がしたくなるのである。

 という論調を振りかざす僕ちゃんらであった。以上はやはり、安吾の「青春論(1942)」から引いてきたものであるが、まあ安吾の飾らぬ態度、というものは私の性(しょう)に合わぬし、ある一定の層からは熱烈に支持されるものだろう、とも思う。例えば、安吾よろしく一人称を“僕”として文章を書く輩(愛読していた音楽雑誌や自動車雑誌にもそんなライターがウヨウヨ居たな、ほんとライターって感じの奴が!)、職場の上司でも居たが、良い歳(六十手前)して“僕は”といちいち不遜な態度で宣(のたま)う奴、自分が可愛いのは人間みな仕方が無いが、それなら他のものも可愛いと思えよ。歯に衣着せぬとか毒舌を売りにする奴の、大体が自らを例外として棚に上げるのは、どうしたものか。安吾はその点マシかもしれぬが、好きにもなれぬ。あれに似てるんだよな、ザ・フー。ROLLYもチバユウスケも大好きなのに、全然ピンと来ない、誰?って感じの、ザ・フーに。

 三島由紀夫は太宰に半ば同族嫌悪しつつ、同じ戦後無頼派とされる安吾を評価していた様だ。そうなると私などは、安吾に半ば同族嫌悪しつつ、まだ太宰の“美名をつけて誤魔化して”“堂々と自我主義を押通す”生き方の方がしっくりくる。実際、三島もそんな様な人物であったはずだが、彼の安吾と共鳴する処というか、根はカラッとしてますよ、サバサバしてますよ、つう奴の、根底にある陰険さが、昔から本当にこの世で一番厭なのだ。大抵そういう奴は猫みたいに、物欲しそうな・寂しそうな顔をして擦(す)り寄って来る時があるのだが、気色悪くて蹴飛ばしたくなる。実際、苦笑い、だ。この世の安吾や、また安吾の類いは、そうして“まっさきに喧嘩がしたくなる”よな人付き合いを求めているのかもしれないが、ドント・タッチ・ミー、だ。

 ブルーノ・タウトの様な外人の日本観(「日本文化私観(1936)」)を日本人が有難がるのは論外だが、それに異議を唱えようとして無理な論陣(「日本文化私観(1942)」)を張る安吾も言語道断だ。伝統・文化が喪失されてしまっても、実質・実感があれば充分である、というのは詭弁(きべん)でしかない。伝統・文化の世話にはなってねえとでも?また、「続堕落論(1946)」において、地元新潟の石油成金の卑しい倹約ぶりを例に、それを称揚するよな日本精神のマズさ・貧しさを揶揄(やゆ)する場面があるのだが、私には安吾も同じ穴の狢(むじな)に見えて仕方無い。彼の思想・言論の飾り気の無さ、頑固さ、強情さ、その根っこにまた(彼の嫌う)貧しい日本精神を見てしまう。谷崎潤一郎や志賀直哉の文章を“空虚な名文”“ニセモノにすぎない”と痛罵(つうば)する雑文もあったが、“物事すべて、実質が大切で、形式にとらわれてはならぬ”安吾的世界に生きる位なら、息詰まる苦しい実質より空虚で楽しい形式に愚かなまま生きて居たい。

 この世の安吾や、また安吾の類いとは、相容れない。何で貴様が捨てたからといって、私まで棄てなきゃならんのか、そんな事は云ってない、手前が勝手にやったんだ、勝手にしやがれ、とこれまた詭弁を弄するのが、奴等のやり口で、カッコいいのは分かったよ、ただ壊すばかりで実(み)が無いんだよ、中身の無い奴に、大切なものを持たぬ奴に、「いき」を生み出せない無能に、野暮ったい無能に、何も云われたくねえのだよ、リベラリスト、ヒューマニスト、村上龍、春樹、中学の時の英語の先公、“僕”と宣う職場の上司、パンクに甘んじるパンクス、パンクにだけは噛みつかないパンクス、みな同じこと、全員しょうもない、そして仕様も無いのを堂々と誇るなよ。

 仕様が無いから仕様が有る様にこちとら、わざわざグラム・歌謡・メタル・野郎と名乗った迄だ。そうしてまた勝手に侮辱されたと思った輩から、これからも突っ掛かられ続ける事だろう。手前の仕様が有れば済む話だろうに、センスがあればよ。さもなくばナンセンスをやってやろうか?葉隠を、ハラキリを、日本の美徳を、天皇制を、大義名分を、空虚な名文を、谷崎を、臓物パーティーを、性器切断を、HR/HMを……「いき」な無意味を!


すべて人間の世界に於ては、物は在(あ)るのではなく、つくるものだ。私はそう信じています。だから私は現実に絶望しても、生きて行くことには絶望しない。本能は悲しいものですよ。どうすることも出来ない物、不変なもの、絶対のもの、身に負うたこの重さ、こんなイヤなものはないよ。だが、モラルも、感情も、これは人工的なものですよ。つくりうるものです。だから、人間の生活は、本能もひっくるめて、つくることが出来ます。




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