人生らしくないものこそ人生、人間らしくないものこそ人間、それが生きとし生けるもの、“生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物(「無常といふ事(1946)」)”で上等上等、死んだらそれ迄のこと、死後の世界にゃ興味は無え、死後の人間にゃ縁が無え、分かった分かった、しかし死んでから始まるものもあるのだ、人生らしい人生、人間らしい人間、それをやらせてくれないか、その可能性の限定と云って、てめえ死人と変わり無えなと、安吾の類いは憤(いきどお)るだろうが、一人落ち着いてやりたいのだ、独りでに、人生の可能、人間の用意、を。
だって人の本性なんて、質(たち)が悪いばっかりで──
「彼は人の虚飾を憎み、真実なる内容のみを尊重する人の如くでありながら、実は好んで大言壮語し、自らの実力の限定に就て誠意ある内省をもっていない。」とは、政治の神様と云われた尾崎行雄(通称、咢堂:がくどう)という大人物を坂口安吾が(何時もの調子で誰彼構わず)辛辣に批評したもの(「咢堂小論(1945)」)であるが、これは全てのものにとって耳が痛く、自らも戒めなければならぬ処である。
こちらに近寄り、また離れて行った人々は、きっとこちらをこの様に見ていたはずだし、こちらから離れて行った際は、彼等をまたその様に見ていた覚えがある。個人的に苦手な人間というのは、“馴れ合いとか好きぢゃないから、言いたい事は容赦なく言うよ”などと傲慢に宣(のたま)う奴等で、そんな人間に限って自分自身には何時迄も馴れ合い、自分に言わなければならぬ事も容赦して自身だけには言わないので、本当に反吐(へど)が出る、その前に関係解消となる訳だが、安吾はそこの真理を簡潔明瞭に言語化してくれて、実に有り難い。好きな作家ではないが、この厳格さや誠実さで全く嫌う事ができない。
言う迄もなく私は虚飾を好む人間である、が無意識・無差別に人の憎悪を買っていた様で、学校でも会社でも“真実なる内容のみを尊重する人の如くでありながら、実は好んで大言壮語し、自らの実力の限定に就て誠意ある内省をもっていない”人々から苦言を呈され、からかわれ続けてきた。それで自尊心というものがすぐ満たされるものなのか、彼等はいつも知らぬ間に、世間と見分けが付かぬ処まで、悪戯(いたずら)にその姿を眩(くら)ませてしまうのであった。人間、大体の出逢いがそうなのか──決してそんな事はない、と大して何も考えない奴等は今に口を挟むだろう──人生に考えのある人など、稀(まれ)にしか居ないのだから。考えなしに社会で生きる事は出来ても、社会と人生の両道は甚だ難しいが故。
それを可能にするのが、虚飾でなくて?
詩や文章では誰より上手く、何より深く、言い当てられる様な気がする事も、そんな虚飾どうだっていいような、しかし同時に大言壮語したいような、無自覚・無自省の敵意を持った輩から、唐突に真理を問われると、急に下手な論調、浅い論考となってしまうのは、どうしたものか。小林秀雄(泥酔して水道橋のプラットホームから落下した文学の教祖ないし鑑定人 by 安吾)が答えている。
批評家は直ぐ医者になりたがるが、批評精神は、むしろ患者の側に生きているものだ。医者が患者に質問する、一体、何処が、どんな具合に痛いのか。大概の患者は、どう返事しても、直ぐ何と拙い返事をしたものだと思うだろう。それが、シチュアシオン(※「現に暮しているところ」サルトル著)の感覚だと言っていい。私は、患者として、いつも自分の拙い返答の方を信用する事にしている。例えば、戦前派だとか戦後派だとかいう医者の符牒を信用した事はない。
嗚呼、患者なのに医者みたいな事を言っていたもんだから、医者気取りにそれらしく診察めいた尋問をされてしまい、具合が悪かったのだ。稀に本当の医者がやって来れば、私など下手な論調や浅い論考など、惜し気も無く披露するしな。それが不快どころか、快方に向かっている気すらするしな。心底、信頼しているのだ。無自覚・無自省で務(つと)まる医者など無いから。どうも患者同士ぢゃ話にならん。いや、話は盛り上がるが、そこで患者風情が医者めいた事を云うのが良くないのだ。無自覚・無自省の分際で、真理を問うのが。全く御免なすって、君の病気(私より重い病気!)を刺激してしまって。
そうと分かれば、堂々と口下手になろう。手が付けられぬほど、詩や文章で着飾ろう。堂々とするには用意がいるのです、それも患者ときたら尚更です。
その用意というのが、虚飾でなくて?
人生の可能、人間の用意、いざやもろびと、虚飾を礼賛せよ。
私は日本伝統の精神をヤッツケ、もののあわれ、さび幽玄の精神などを否定した。然(しか)し、私の言っていることは、真理でも何でもない。ただ時代的な意味があるだけだ。ヤッツケた私は、ヤッツケた言葉のために、偽瞞(ぎまん)を見破られ、論破される。私の否定の上に於て、再び、もののあわれは成り立つものです。ベンショウホウなどという必要はない。ただ、あたりまえの話だ。人は死ぬ。物はこわれる。方丈記の先生の仰有(おっしゃ)る通り、こわれない物はない。
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