2023年4月30日日曜日

新刊「平成総体(へいせいそうたい)」上梓

間に合った。三十四歳となる前の今日迄に、三十三歳迄の人生に書いてやったのだ。バルザックよりもバルザックらしく、神様よりも神様らしく。

 この破廉恥を如何に、正直かつ誠実に、制御・統合してゆくのか?生涯かけてやらねばならんのだ、バルザックよ、神よ!

 その真面目を如何に、俗悪かつ猥褻に、波及・伝播させてゆくのか?生涯かけてやらねばならんのか、父母よ兄よ恋人よ、私以外のものどもよ!

 これでようやく平等なのです。


前作「六界記紀」に引き続き自ら装幀をデザインした
※=:イコール、平等、平均、平行、平凡、ないし平成の意


~~~~~~


–序文–
(令和五年二月二十六日)


–本編–
(令和四年十一月三十日)

(令和五年二月二十八日)



–跋文–
「三十代の青春小説」

「ライ麦畑でつかまえて」が十代の青春小説なら、「鏡子の家」は二十代にとっての其れだろう。

 どちらも滅茶苦茶に背伸びをした、つまり十代にはまだ早い十代の行動をする主人公と、二十代にはそぐわない二十代の言動をする主人公達とが繰り広げる、読者の共感以上に作家の虚栄心と保身が感ぜられる物語だろう。だってサリンジャーは32歳で、三島は34歳で、それを書いたのだから。両者を割った平均(=)の処の33歳となった今、私は一体何を書くべきか?

 そこで三十代の青春小説を探している。三十代には似合わぬ老衰しきった、しかし三十代にしては若すぎると云えるよな、そんな本がないものか?と古本屋を練り歩く。

 しかし古本屋というのは静かで他人に無関心な、本にしか相手にされぬよな人間の巣窟だ。人目も付かぬ独りの家でこんな文章を綴るよな、愛想良いのも悪いのも沢山の意気地なしが、其処(そこ)には居るんだ。

 一人は四十過ぎの自営業やっておますみてえなヒゲ面メガネが、私の物色する棚にぐいぐいと無言で身体をねじ込ませて来る。こんな意気地なしより意気地がなくたって構わないから、私は無言で其処をどいてやるとほら勝ち誇った様に、仁王立ちして思う存分に大好きな本を漁ってらあ。色んな文学だ哲学だ読み漁っていても此の様ぢゃ、全くこっちまで哀れな気分になっちまう。

 またある時は、私が背中の向こうの棚に立つ七十位のじじいが“ぶしゅうゝ”なんて排泄音を立てたもんで振り返ったらば、素手で鼻をかんでいた。しかも其の手で矢継ぎ早に、陳列された色々な本へ手を掛けて、一冊一冊の状態をまぢまぢ確認し始めちゃうもんだから、私ほとほと嫌気が指して、購買意欲も失せちゃった。じじいが見ていたのは時代小説の棚で、手前が読まぬ類いのものだったからまあ良いが、読書からしか学びが無かったであろう、こんなじじいにはなりたくねえ、としみじみ切なくなっちまう。

 そうだ、三十代の青春小説を探していた。三十代には似合わぬ老衰しきった、しかし三十代にしては若すぎると謂われるよな、そんな本がないものかと。お手本も無しに斯(こ)う、自分で書くしかないものか?

 そもそも小説の書き方なんて、誰も教えてくれなかった。日々の出来事などを綴るうち、日記のつもりが人生めいてきて、こら小説そのものぢゃないか、と書き方を突然に分かる迄。人間、結局、人生な迄。

 そうだ、曲作りもこんなだった。さて、続きをやらないと。イコールの、向こうまで書かないと。



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 月の世界と太陽の世界のどちらも克明に描けたら、午前中午後どちらも書けたら、陰陽どちらに地球が転んだって、東西に分かれたって上下に離れたって、私はその片方で多分、生きてゆけると思うのです。

 これでようやく平等なのです。



「今こそおまえは偉大へと向かうおまえの道を行かねばならぬ。山頂と谷──それらはいま大きい一体のなかに包含されたのだ。
 おまえは偉大へと向かうおまえの道を進んでいる。今まではおまえの最後の危険であったものが、おまえの最後の隠れ家(が)になったのだ。
 おまえは偉大に向かうおまえの道を行かねばならぬ。おまえの背後にもう道がないということが、いまおまえに最善の勇気を与えねばならぬ。
 おまえは偉大へと向かうおまえの道を行かねばならぬ。ここでは何びともおまえのあとに従う者はないだろう。おまえの足が自分で自分の歩いた道を消して進むのだ。そしてその道の上方には、『不可能』という大文字がかかげられている。」
-ツァラトゥストラ


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