2022年5月5日木曜日

虚飾礼賛 –続対安吾論–



 人生らしくないものこそ人生、人間らしくないものこそ人間、それが生きとし生けるもの、“生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物(「無常といふ事(1946)」)”で上等上等、死んだらそれ迄のこと、死後の世界にゃ興味は無え、死後の人間にゃ縁が無え、分かった分かった、しかし死んでから始まるものもあるのだ、人生らしい人生、人間らしい人間、それをやらせてくれないか、その可能性の限定と云って、てめえ死人と変わり無えなと、安吾の類いは憤(いきどお)るだろうが、一人落ち着いてやりたいのだ、独りでに、人生の可能、人間の用意、を。

 だって人の本性なんて、質(たち)が悪いばっかりで──

 「彼は人の虚飾を憎み、真実なる内容のみを尊重する人の如くでありながら、実は好んで大言壮語し、自らの実力の限定に就て誠意ある内省をもっていない。」とは、政治の神様と云われた尾崎行雄(通称、咢堂:がくどう)という大人物を坂口安吾が(何時もの調子で誰彼構わず)辛辣に批評したもの(「咢堂小論(1945)」)であるが、これは全てのものにとって耳が痛く、自らも戒めなければならぬ処である。

 こちらに近寄り、また離れて行った人々は、きっとこちらをこの様に見ていたはずだし、こちらから離れて行った際は、彼等をまたその様に見ていた覚えがある。個人的に苦手な人間というのは、“馴れ合いとか好きぢゃないから、言いたい事は容赦なく言うよ”などと傲慢に宣(のたま)う奴等で、そんな人間に限って自分自身には何時迄も馴れ合い、自分に言わなければならぬ事も容赦して自身だけには言わないので、本当に反吐(へど)が出る、その前に関係解消となる訳だが、安吾はそこの真理を簡潔明瞭に言語化してくれて、実に有り難い。好きな作家ではないが、この厳格さや誠実さで全く嫌う事ができない。

 言う迄もなく私は虚飾を好む人間である、が無意識・無差別に人の憎悪を買っていた様で、学校でも会社でも“真実なる内容のみを尊重する人の如くでありながら、実は好んで大言壮語し、自らの実力の限定に就て誠意ある内省をもっていない”人々から苦言を呈され、からかわれ続けてきた。それで自尊心というものがすぐ満たされるものなのか、彼等はいつも知らぬ間に、世間と見分けが付かぬ処まで、悪戯(いたずら)にその姿を眩(くら)ませてしまうのであった。人間、大体の出逢いがそうなのか──決してそんな事はない、と大して何も考えない奴等は今に口を挟むだろう──人生に考えのある人など、稀(まれ)にしか居ないのだから。考えなしに社会で生きる事は出来ても、社会と人生の両道は甚だ難しいが故。

 それを可能にするのが、虚飾でなくて?

 詩や文章では誰より上手く、何より深く、言い当てられる様な気がする事も、そんな虚飾どうだっていいような、しかし同時に大言壮語したいような、無自覚・無自省の敵意を持った輩から、唐突に真理を問われると、急に下手な論調、浅い論考となってしまうのは、どうしたものか。小林秀雄(泥酔して水道橋のプラットホームから落下した文学の教祖ないし鑑定人 by 安吾)が答えている。

批評家は直ぐ医者になりたがるが、批評精神は、むしろ患者の側に生きているものだ。医者が患者に質問する、一体、何処が、どんな具合に痛いのか。大概の患者は、どう返事しても、直ぐ何と拙い返事をしたものだと思うだろう。それが、シチュアシオン(※「現に暮しているところ」サルトル著)の感覚だと言っていい。私は、患者として、いつも自分の拙い返答の方を信用する事にしている。例えば、戦前派だとか戦後派だとかいう医者の符牒を信用した事はない。

 嗚呼、患者なのに医者みたいな事を言っていたもんだから、医者気取りにそれらしく診察めいた尋問をされてしまい、具合が悪かったのだ。稀に本当の医者がやって来れば、私など下手な論調や浅い論考など、惜し気も無く披露するしな。それが不快どころか、快方に向かっている気すらするしな。心底、信頼しているのだ。無自覚・無自省で務(つと)まる医者など無いから。どうも患者同士ぢゃ話にならん。いや、話は盛り上がるが、そこで患者風情が医者めいた事を云うのが良くないのだ。無自覚・無自省の分際で、真理を問うのが。全く御免なすって、君の病気(私より重い病気!)を刺激してしまって。

 そうと分かれば、堂々と口下手になろう。手が付けられぬほど、詩や文章で着飾ろう。堂々とするには用意がいるのです、それも患者ときたら尚更です。

 その用意というのが、虚飾でなくて?


 人生の可能、人間の用意、いざやもろびと、虚飾を礼賛せよ。


私は日本伝統の精神をヤッツケ、もののあわれ、さび幽玄の精神などを否定した。然(しか)し、私の言っていることは、真理でも何でもない。ただ時代的な意味があるだけだ。ヤッツケた私は、ヤッツケた言葉のために、偽瞞(ぎまん)を見破られ、論破される。私の否定の上に於て、再び、もののあわれは成り立つものです。ベンショウホウなどという必要はない。ただ、あたりまえの話だ。人は死ぬ。物はこわれる。方丈記の先生の仰有(おっしゃ)る通り、こわれない物はない。


2022年5月4日水曜日

「いき」の創造 –対安吾論–

手前を語るに、何故に今さら安吾か。対安吾論と云ったって、もうこの世に居ない人ではないか。そうか死人に口無し、手前さては腰抜けだな。ご明察、ご名答。より正確には対安吾ないし安吾ならざるものにとって、安吾たりうるものは安吾の時代まで遡(さかのぼ)らなければ皆無であったということ。安吾以前は別として、現代に骨のある対私が居ないということ。

 それでも私に突っ掛かって来る奴というのは──

葉隠れ論語によると、どんな悪い事でもいったん自分がやらかしてしまった以上は、美名をつけて誤魔化してしまえ、と諭(さと)しているそうだけれども、僕はこれほど堂々と自我主義を押通す気持はない。もっと他人というものを考えずにもいられないし、自分の弱点に就て、常に思いを致し、嘆かずにもいられぬ。こういう葉隠れ論語流の達人をみると、僕はまっさきに喧嘩(けんか)がしたくなるのである。

 という論調を振りかざす僕ちゃんらであった。以上はやはり、安吾の「青春論(1942)」から引いてきたものであるが、まあ安吾の飾らぬ態度、というものは私の性(しょう)に合わぬし、ある一定の層からは熱烈に支持されるものだろう、とも思う。例えば、安吾よろしく一人称を“僕”として文章を書く輩(愛読していた音楽雑誌や自動車雑誌にもそんなライターがウヨウヨ居たな、ほんとライターって感じの奴が!)、職場の上司でも居たが、良い歳(六十手前)して“僕は”といちいち不遜な態度で宣(のたま)う奴、自分が可愛いのは人間みな仕方が無いが、それなら他のものも可愛いと思えよ。歯に衣着せぬとか毒舌を売りにする奴の、大体が自らを例外として棚に上げるのは、どうしたものか。安吾はその点マシかもしれぬが、好きにもなれぬ。あれに似てるんだよな、ザ・フー。ROLLYもチバユウスケも大好きなのに、全然ピンと来ない、誰?って感じの、ザ・フーに。

 三島由紀夫は太宰に半ば同族嫌悪しつつ、同じ戦後無頼派とされる安吾を評価していた様だ。そうなると私などは、安吾に半ば同族嫌悪しつつ、まだ太宰の“美名をつけて誤魔化して”“堂々と自我主義を押通す”生き方の方がしっくりくる。実際、三島もそんな様な人物であったはずだが、彼の安吾と共鳴する処というか、根はカラッとしてますよ、サバサバしてますよ、つう奴の、根底にある陰険さが、昔から本当にこの世で一番厭なのだ。大抵そういう奴は猫みたいに、物欲しそうな・寂しそうな顔をして擦(す)り寄って来る時があるのだが、気色悪くて蹴飛ばしたくなる。実際、苦笑い、だ。この世の安吾や、また安吾の類いは、そうして“まっさきに喧嘩がしたくなる”よな人付き合いを求めているのかもしれないが、ドント・タッチ・ミー、だ。

 ブルーノ・タウトの様な外人の日本観(「日本文化私観(1936)」)を日本人が有難がるのは論外だが、それに異議を唱えようとして無理な論陣(「日本文化私観(1942)」)を張る安吾も言語道断だ。伝統・文化が喪失されてしまっても、実質・実感があれば充分である、というのは詭弁(きべん)でしかない。伝統・文化の世話にはなってねえとでも?また、「続堕落論(1946)」において、地元新潟の石油成金の卑しい倹約ぶりを例に、それを称揚するよな日本精神のマズさ・貧しさを揶揄(やゆ)する場面があるのだが、私には安吾も同じ穴の狢(むじな)に見えて仕方無い。彼の思想・言論の飾り気の無さ、頑固さ、強情さ、その根っこにまた(彼の嫌う)貧しい日本精神を見てしまう。谷崎潤一郎や志賀直哉の文章を“空虚な名文”“ニセモノにすぎない”と痛罵(つうば)する雑文もあったが、“物事すべて、実質が大切で、形式にとらわれてはならぬ”安吾的世界に生きる位なら、息詰まる苦しい実質より空虚で楽しい形式に愚かなまま生きて居たい。

 この世の安吾や、また安吾の類いとは、相容れない。何で貴様が捨てたからといって、私まで棄てなきゃならんのか、そんな事は云ってない、手前が勝手にやったんだ、勝手にしやがれ、とこれまた詭弁を弄するのが、奴等のやり口で、カッコいいのは分かったよ、ただ壊すばかりで実(み)が無いんだよ、中身の無い奴に、大切なものを持たぬ奴に、「いき」を生み出せない無能に、野暮ったい無能に、何も云われたくねえのだよ、リベラリスト、ヒューマニスト、村上龍、春樹、中学の時の英語の先公、“僕”と宣う職場の上司、パンクに甘んじるパンクス、パンクにだけは噛みつかないパンクス、みな同じこと、全員しょうもない、そして仕様も無いのを堂々と誇るなよ。

 仕様が無いから仕様が有る様にこちとら、わざわざグラム・歌謡・メタル・野郎と名乗った迄だ。そうしてまた勝手に侮辱されたと思った輩から、これからも突っ掛かられ続ける事だろう。手前の仕様が有れば済む話だろうに、センスがあればよ。さもなくばナンセンスをやってやろうか?葉隠を、ハラキリを、日本の美徳を、天皇制を、大義名分を、空虚な名文を、谷崎を、臓物パーティーを、性器切断を、HR/HMを……「いき」な無意味を!


すべて人間の世界に於ては、物は在(あ)るのではなく、つくるものだ。私はそう信じています。だから私は現実に絶望しても、生きて行くことには絶望しない。本能は悲しいものですよ。どうすることも出来ない物、不変なもの、絶対のもの、身に負うたこの重さ、こんなイヤなものはないよ。だが、モラルも、感情も、これは人工的なものですよ。つくりうるものです。だから、人間の生活は、本能もひっくるめて、つくることが出来ます。




2022年5月3日火曜日

おのが主導楽句目録 –四大ライトモチーフ(Leitmotiv)–

【Nori MBBMの場合】

Are you burning?→権限の譲渡(広義)

ドグマッ→権限の受託(狭義)

Nori→権限の抑止(憲法)

MBBM→権限の発動(法律)


 ただのメモだ、気にするな。政治学よりあからさまに記した。記載の無いレシタチーフ(Rezitativ)は念頭に無かっただけだ。

 君にだけ打ち明けよう──おのが主導楽句


 ドグマッ


2022年5月2日月曜日

十掛け三足す三の詩(十二支詩・寅)



抱え込むのもしんどい
早く中絶しちまいたい
人間生まれた処でだよ
中途半端な男や女にさ
唾つけられて適当にさ
用が済んだら皆ポイさ
それを好意と抜かして
キス、そしてデスです
嫌な奴等、厭な奴等だ
一人ぼっち、独りごち

こんなに有意義、且つ
世界一一途にやるだけ
浮気する気は起こらず
賭博する金すら持たず
下品な輩蹴散らすだけ
それだけの気概と現金
現金な己が世間知らず
貴様に何もしてやらぬ
その文脈に全く沿わぬ
パクれるんならパクれ

ウヱルカム・痛・マヰ
アレルギヰアレルギヰ
アレルギヰが楽しみだ
拒絶反応が見られるだ
丸でエビカニ甲殻類だ
攻殻機動隊だ知らねえ
たちまち湿疹が出るだ
どのみち嗚咽をするだ
喜びも哀しみも元々だ
一緒なんだから感動だ


抱え込むのもしんどい

産み落としてやりたい

完全無欠を完全無血に




2022年5月1日日曜日

33歳27歳:ゴルゴダオブジェクト

友達にさよなら、恋人にさようなら、仕事にさいなら、音楽に左様なら、それから手前にもおさらば、巡り廻って自分にバーイ!──別離は悲しみ、こちらから見て腑に落ちない。

 天上にさよなら、人間にさようなら、修羅にさいなら、畜生に左様なら、そうして餓鬼にもおさらば、回り廻って地獄にバイバイ!──別れ哀しみ、こちらに立って納得しないし、こちらにとっては納得できない。

ああ、私たちの一人一人が、生涯に一度はみなゴルゴダの丘をのぼりつめ、胸深く槍(やり)の穂先をつきさされ、頭上にばらならぬ茨(いばら)の冠を感じながら、それまでにすごした三十三年の歳月をそこに葬り去らねばならぬのだ。この丘はこれからの私にとってまさに贖罪(しょくざい)の丘となるだろう。
-フェリックス・ド・ヴァンドネス

 己が生涯の入り込む余地として、変哲の無い風景が欲しかった。空(うつ)ろに広がる天上から、虚ろに拡がる脳天まで、天啓を欲しがった。ちょうど時代が、そうかしらん?──離別は歓び、あちらから見て為し遂げた。

 手前でどう仕様も無く片付けられない余生をして、方を付けるだけの名も無き時代を欲しがった。灰色の荒地に、色が差して来る様な。一世が一代を指す為に、一斉に朝陽が射す様な。ちょうど私が、それかしらん?──別に喜び、あちらに立って承知したし、あちらにとっては承知し得た。

私は音楽と文学に身を挺し、曲りくねった野心の小道をたどりながら、自分の生活からいっさい女性をしりぞけ、情熱に心をひきずられぬ冷厳な音楽家となり、自分の愛した聖女の思い出に、いつまでも忠実であろうと心をきめました。

 一、牡牛座の日食に雨降る
 二、暗然と生まれ変わる
 三、正真正銘誕生日
 四、無始無終平成
 五、ハピバ俺
 六、超絶俺
 六回、俺
 俺六界
 俺等
 俺

 上段は冗談で/、斜に構えた新しい線を引かれる、終焉──別れて分かった、出逢いは悲哀、或いは慈愛、言葉も/で別れさす、押韻/断定/サンデイ/ダンテ、選(よ)り/選(すぐ)り/単語/タンゴ、今日の/日めくり/こう/呟いた/unfinished/ballades

【MBBMの日めくりバーニン六界】スクリーミン・サンデイ!魔女の雄叫び、断末魔の叫びで生まれちゃう。だから日曜は太陽のデー、自ら輪郭を貫いて己が輪郭を嫌ったの。月夜はお好きよ(押韻)。馬鹿、馬鹿、虎馬じゃない。大丈夫、大丈夫、大丈ばない。押韻、押韻、断定、断定、ダンテかよ!ドグマッ


 国立天文台(NAOJ)より憲宏(MBBM)へ、本日午前5時28分、部分日食を観測す、部分日食を観測す

のがれよ、わたしの友よ、君の孤独のなかへ。わたしは、君が毒ある蠅(はえ)どもの群れに刺されているのを見る。のがれよ、強壮な風の吹くところへ。
 のがれよ、君の孤独のなかへ。君は、ちっぽけな者たち、みじめな者たちの、あまりに近くに生きていた。目に見えぬかれらの復讐(ふくしゅう)からのがれよ。君にたいしてかれらは復讐心以外の何ものでもないのだ。
 かれらにむかって、もはや腕をあげるな。かれらの数は限りがない。蠅たたきになることは君の運命でない。
-ツァラトゥストラ