2023年2月28日火曜日

平成総体(下)



四日目の午後

 よう寝たな、もうすぐ12時か。朝昼夕兼用の、でっかい一食の時間だ。夜は、あんぱん一つで良いだろ。

 新高の家から徒歩8分の処に、“成都(せいと)”という彼の行きつけの中華料理屋がある。その名が示す通り、四川料理である。定食メニューで一番安い、一番先頭に乗っている(看板メニューの)麻婆豆腐がごつ旨い。壺の様な黒いお椀に入って、真白なレンゲが刺さった状態で出てくる。この見た目が何とも良い。愛嬌があって、且(か)つ挑戦的で、食欲だとかその他諸々の欲までそそる。嗚呼、思い出しただけで腹が鳴る。何かしらの香辛料の数々、山椒の爽やかな辛さ、涼(すず)やかな熱さ。

 厨房には平日は一人、週末は二人くらい、日本語を殆(ほとん)ど話せない現地の人が、中華鍋をせかせかと振るう。ホールには平日は二人、週末は三・四人の、日本語を片言で話す現地の人が、いずれも早口でオーダーを取りに来る。オーダーを受けたら最後には必ず「ライスハ、セルフサービス」、「サラダ・ヤキソバ・トンソク・ザーサイ・スープ・アンニンドーフ、オカワリジユウ」と説明がある。みな明るい性格と見えて、その愉(たの)しげな雰囲気が、一人暮らしの何の刺激も無い新高をここに連れて来る。事実、開店直後の成都へ行ってみれば、そんな様な陰気な一人男を幾人か見つけられる(20歳そこそこの女の子も案外来る)。

 「ライスハ、セルフサービス」、「サラダ・ヤキソバ・トンソク・ザーサイ・スープ・アンニンドーフ、オカワリジユウ」。全ての定食にバイキングの食べ放題が付いているので、11時の開店から十数分で席の半分以上が埋まってしまう。700円前後で定食のおかず、それに付随して冷奴サラダ(千切りキャベツに薄切りの豆腐を乗せて胡麻ドレッシングを掛けたもの)、中華焼きそば(人参、キャベツ、ニラ、もやし、きくらげと麺を紅油:ホンユーで炒めたもの)、豚足(最近は圧力鍋に入ったままで提供)、ザーサイ(たまに市販の細切れザーサイの日がある)、白米(最近はもっちりめで炊かれている)、かきたま汁(さっぱりと淡白な味)、杏仁豆腐(原材料高騰と経費削減の為か最近はフルーツが入らなくなった──それを新高は“ストイック杏仁”と呼ぶ)が食べ放題である。新高は何時もこれらを丼六杯、腹十二分目、はち切れんばかりに喰らう。周りの客は大抵、小皿に色んな種類のものを少しずつ装(よそ)うから、新高の丼六杯は少しやり過ぎだ。しかも彼は別に大食いを自覚していないので、周りの目を大して気にしない(“力士にでもなるの?”、“私まで力士にさせたいの?”と先日、小食の篠歩に云われて初めて気が付いた)。というか別に今だって、そない食べる事を変だとは思っていない。

 会計、それから帰り道では何時も、汗だくで鼻水まで垂れそうになる。きっと麻婆豆腐の辛さと食べ過ぎによるものであると思われるが、まるで鼻炎アレルギーとか誤嚥(ごえん)でもしたかの様である。家に着く迄の外の空気が気持ち良い。漠然と不安定な幸せを感じている。不穏と幸福が綯(な)い交ぜのあれ。満開の幸せよりもずっと身の丈に合っていると思われて、一筋縄ではゆかないこの感情──ハッピーサッド──こそが、新高には何よりの幸せなのであった。

 帰りにスーパーへ寄り道して78円のあんぱんを買い、冷蔵庫にそれを放り投げた。隣のマンションに日を遮(さえぎ)られ、13時前というのに部屋は以前にも増して暗かった。ツァリンツァリン

五日目の午前

 「昂君って普通よね」
 「え?まあ普通だよ」
 「何で?」
 「何でって……変な事しようとしたり、変な物が好きっていうのが、本当に凡人なんだと思うよ」
 「ふうん」

 篠歩は不服そうな顔をしていた。品定めされていたのだろう、試されていたのだろう、男として、人として。今にして思えば冷静にそう考えられるし、こう答えておけば良かったとも思う──

 「普通、どうでも良い事、そんなのばっか特別な気がして、人が見過ごす物に執着したくなる、すると自分はどんどん他人と違う事に熱中しているのだと興奮して来る、それが余計、皆からして普通だし、退屈だし、平凡に見えるのかもしれないね」
 「うん、もっと素直に表現したら?」

 新高が、篠歩の表現を不快に思ったのは、つまり表現という行為は篠歩が羨(うらや)むものを変換したものでもあるから、何だそんな詰まらぬものを羨んでいたのか、と萎(な)えてしまう為であった(ここで上記“羨むもの”という箇所が誤りで“決してそんなものではない”と彼女に訂正でもされたら、新高は更に萎えるに違いない)。

 そうして我等、分かり合えぬが良い。それだけを強制する。そこの処、同調圧力かける。無意識に重力も掛かる。何時もの自由だ、粋だねえ、持って行けよ。

 蒲団(ふとん)の上で新高は無性に苛立ち、次第に悶々と鬱屈した気持ちは下半身へと集中し、ふと朝勃(あさだ)ち、一昨日の篠歩の身体を思い出しながら、滅茶苦茶に手淫(しゅいん)した。気持ち良かった。その後、体感では3時間くらい、実際は40分ほど気を失った。腑抜(ふぬ)けに成った。意識と無意識が混濁とし、実際、考えながら夢を見た様だった……

 「おやすみなさい、昂君」

 「篠歩……いや」

 -平成明朝体-

 「俺はふぉんとに欲情したんだあゝ」

五日目の午後

 人の話が入って来ない。誰とも噛み合わない。何時からか?

 中学からぢゃないか、それより前にも親戚や友達に対しても、その片鱗はあったやもしれぬが。あれだよ、最低の中学で英語を教えていた浅黒い肥満体の眼鏡、先公の河山。

 あいつは気付くと脈絡のない板書(ばんしょ)をし始める。こっちはノートに書き留めながら、あれ?何時こんな話になったんだっけ?さっきまでSVOCがどうの言うてたのに、この唐突な設問は何だ?でも皆は平然として受講し続けているから、付いて行けてないのは私だけなのだろう。大事な何か、きっと聞きそびれたのだろう。世界は平然と進み続けるから、戸惑っているのは私一人だけなんだろう。他の奴に一々確認した事は無いけど、そんな確認をするのも面倒なこった。

 それが私の過ちだった。そしてまた、それが世界の過ちでもあった。そんなとき先公の河山は必ず、腑に落ちない私の顔を見て嬉そうに「新高!」と指差し当ててくる。私は何も答えられず、他の誰かが何か答えない限り、教室の沈黙は延々と続いた。今でも煮え切らぬ事がある度、それを思い出す。

 とある日の英語の授業では、こんな事もあった──「新高の父さんはM銀行だったな」「M銀行のCMのキャッチコピー、文法的におかしいと思うんだよね」「どうもあそこはおかしい所だよ」「今日帰ったら父さんに言ってみたら、はははは」。河山の饒舌(じょうぜつ)に、何も言い返せなかった。大切な何か、言いそびれたのだ……

 「おやすみなさい、新高君」

 「篠歩……いや」

 -ツァリンツァリン-

 「いや?」
 「以前、神田辺りで勝手に……」
 「レンタカーに同乗した神のツァリンです」
 「だから銀行も信仰も貯金の類いは全て使い果たしたの!コミュニケーションはもっと尊いの!金ぢゃないの!神ぢゃないの!ツァリンぢゃないの!」
 「何の用かね?と云いたいのですね?」
 「てか神って?自ら神を名乗るものなのかね?」
 「もう神ではないのですツァリンです」
 「人か?」
 「人でもありませぬ」
 「ヒト科?」
 「そう、文字だけ換えても……文章でしか伝わりませんよ新高さん」
 「これは文章だから良いの!」
 「そうですか……わたくし何を隠そう、阿弥陀様、それからお釈迦様より、“平成時代は御前に任せたぞ”と三十数年前に云われましてね」
 「何て?今とんでもなく大切なこと言ったな?」
 「えゝ、前に言いそびれたのです、あのレンタカーの時に、貴方が“コミュニケーション云々(うんぬん)”、“畜生云々”、“云々/\”と取り乱したものですから」
 「失礼致しました」
 「はゝ、こちらこそ……それでわたくし平成の三十年間を任された訳なのですが、全ては虚無だったのです」
 「今さら“失われた三十年”とか誰でも思い付く戯言(たわごと)を云う事も無いでしょう?可燃ゴミクズ箱に入れますよ?会社も社会も全部いらねんだ」
 「全く違います……会社も社会も、平成も六界も、私も貴方も、全ては虚無だったのです」
 「それが言いたかったこと、言いそびれたこと」
 「はい、すっきり致しました……虚無(こむ)はすなはちこれ解脱(げだち)、解脱はすなはちこれ如来(によらい)なり、如来はすなはちこれ虚無なり」
 「あゝ、虚無は乃(すなわ)ち解脱であり、解脱は即ち如来であり、如来は則ち虚無である、と……ばあちゃんも毎日称(とな)えていた」
 「親鸞上人(しょうにん)の」
 「『正信偈(しょうしんげ)』の」
 「『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の第五巻“真仏土文類(しんぶつどもんるい)”、その『涅槃経(ねはんぎょう)』について書かれている処です……つまりこれが真理なのです」
 「虚無ってこと?信じた全ては、捧げた全ては、生きて居た世界も死んだ後の世界も、虚無だってこと?」
 「その通りで御座居ます」
 「ニーチェと変わんねえぢゃん!神は死んだ!って云われたって頑張ってよ!みんな救ってやってよ!大丈夫大丈夫って、大乗仏教ってよ!」
 「ニーチェさんもこちらに居ますよ、ほら」
 「本当だ!どうも」

 ──ニーチェ氏、軽く会釈す、机上(きじょう)に『歎異抄(たんにしょう)』を広げながら、“~はこう語った。”と原稿へ書き付けている様子──

 「で、真理なのですが、新高君、お見せしても宜しいですか?」
 「良いですよ、見せてください、ツァリンさん」
 「わっかりました……平・成・総・体!!」
 「わあ!!目の前に見えるは平成三十年四月一日(日)の大和町中央通り、スナック葵(あおい)!こっから数年で拡張工事されて令和の今は随分と道幅が広くなったんだよなあ、役所は余計な事にしか金使わねえなあ、やっぱ隣のマンション邪魔だよな、この懐かしいアパート群の景観から浮いてんだよな……って東京都中野区大和町一丁目の我が家の窓から眺める馴染みの風景やないすか、どこが真理すか、何時もと何も変わらんすよ!」
 「新高君、これが真理で御座居ます」
 「いや私はまだ良いけども、ニーチェさんや読者の皆からしたら訳分からんですよ、大和町一丁目が真理です!って、えゝ?」
 「別の言葉が良かったですね、虚無でなし、そう……自然なのです」
 「真理は、自然」
 「そうです、ただありのまま……ただ自然の事につきましては、あれこれと詮索しないで頂きたい……それはいずれいづれも不自然となり、必ずや計らいや思議(しぎ)となり、貴方は私と共に平成から往生できなくなりますから」
 「……わっかりました、往生際が悪いって事ですね」
 「そういうこと……言いそびれた事は云えました、新高君、隣の高層マンションが君の自然を遮ったとて、令和の世界で強く生きてゆかなければなりませぬぞ、平成の事は私と共に忘れるのですよ、絶対に!!」
 「……はい、ツァリンさん」
 「ぢゃ、わたくし何時とは言わん迄も、何時も君が両手を合わせるその、向かう側に居る、仏壇へと還りますね……平・成・総・体!!」

六日目の午前

 私の怖(おそ)れる一番厭(いや)な奴は、水と油、対極に居る決して混ざり合わない人間だ、と思わされる私なのだ。最も離れた場所に居る、宿命的な繋がりを持った生き別れの、見た目だって似ても似つかない私なのだ。街中で出会(でくわ)す気違い、思わず眉をひそめてしまう下等(かとう)な生き物、何を隠そう何より君なのだ。おぞましい言動で、救いようが無いから、いたたまれない気持ちになるけれど、それはそれが君だからだ、つまりは私だからだ。汚い声で名を叫ばれて、汚れた手を振りながら追い掛けられて、狭い路地の行き止まりに身を潜めていたら同じルートでそいつがまさかやって来る、何でだよ、何て憎たらしい奴なんだ、私の心の内が読まれているんぢゃない、思考回路を一緒にしている君なれば、不思議な事ぢゃない。ただ身体は別だから死ぬ時だけは別々だ。お前が死ぬと自らの死を予見させられている様で、この上なく不吉な想いをさせられるけど、私ぢゃないから構わない。ここで同情したり運命を感じたら、漫画だ映画だ小説だ、命拾いする処で拾える命も拾えなくなる。話は面白くなるだろうが、面白いと思う私が君もろとも息絶える。面白いのは外野の客だけ、私は作品になんて成りたくない。私は作品を作る側なんだ、あくまでミイラ取りなのだ、追い掛けてきたミイラの仲間入りを恐れる、君の偉大さを理解しているからこそ畏(おそ)れる、他の誰よりも私だ。鉢合わせたら、迷わず殺(あや)める。もう一度言う、迷わず・殺める。己に言い聞かせ、迷わず殺める。二度と来るな、迷わず・殺める。四回言った、不吉は知らない。業は要らない、業が私を要るってだけの話──LIKE A RPG

 もっと自分で考えたくない。よりいっそ他人が考えてくれ。「お前馬鹿ぢゃん」「あんた怠惰だ」って軽蔑してくれ。世界中みんなそうしておくれ。そして我が読者だけは見抜いて居てくれ。自分で考えない事の自虐的、他人で考えられる事の越権的、行い。世界の少数位が丁度良い。本の類い好きな輩は少ない数の方が良い。スノッブ、ジャブ、一発、二発、世間知らず、セコい生き方、世界、破滅しちゃうから。みな本など読まないでおくれ。文学だけは嗜(たしな)まないでおくれ。自分でモノ考えられなくなるぞ!他人の受け売り人間になっちまうぞ!心にも身体にも悪いんだぞ!だから決して読書などしない様に!自虐も越権も本来生き物がやる事ぢゃあないんだ!本の虫など馬鹿にして人は生殖を中心とした出来事だけ重要視しなさい!びっくりマーク六つも使いました──BUT NOT RPG

 誰かが如何(どう)にかしてくれるだろうという甘えがある内は、安心して人を傷付ける事が出来た。顔に一生の傷を付ける位の兄弟喧嘩、心に一生の傷を負う程の友達との争い諍(いさか)い。縁など切れる訳ないだろうと思う存分に暴れ回り、実際に幾つかの縁が切れてしまった。或いはまた、縁など簡単に切れると知ってからは慎重になった。親友や親戚や恋人や両親に、無口になったと思われた。若(わか)すぎる青春を経た後の、苦(にが)すぎる青年の時に思われた。恐る怖る人と付き合う様になり、いま殆ど一人となった。要するに如何やっても縁など切れてしまい、結局は独りとなった。時が平等に全てを引き裂いてしまった、慎重で繊細な努力も愛情も尊敬も皆全て。二回も四回も六回も、六界も九界も知ってしまった──LIKE A RPG, BUT NOT RPG

六日目の午後

 私は私の性器とか臓器とか脂肪をこんなにも別のものとして感じて居るのに、人は当然そりゃあ君のもんだと認識して私に触れたり触れなかったりする。このどちらが本当に正しく、人を理解して居るのだ?分別して考える方なのか、一体として考える方なのか?

 嫌いだ厭だと決め付けたら最後、好きだ同じだはもう見えぬ、吐き気が一切を見せぬ。理解したくて奴を、君を、言葉でバラバラにしてやるぞ、と本気で真面目にそう思っている。難しい事なのは分かっている。

 真面目は理性と思われがちだが、あれ本能だ。若しくは理性が考えるより理性は、より本能だ。こんな思考の跡を見られて恥ずかしい、新高、冷や汗が出ちまう。お腹が痛い、新高、眠れない。肌も荒れる、貴様、戯(ざ)れる──

 何だお腹が弱いの?お前アトピーなの?本当に物は言い様だ。貴様よりも感じる。何でも腹や肌が感じ取る。感受性豊かに。本当に良い様に云ったな?それだけの事。だから黙れや、鈍感君。

 (新高はいつも──スマートフォンのアプリの──Twitterを起動してキーボードのフリック入力で得意気に140字ちょうど呟いてハートいわゆる“いいね”を幾つか貰っていた)

【MBBMの日めくりバーニン外伝】終わり、終わらすのだ、消すに似て、でも消さないで消せないで消えないで、だから終わるのだ。始まり、終わりと似ていない方の消すに似て、何も無くて消せなくて、書きたくて描きたくて得たくて、だから始まるのだ。ここに登場してはならぬ円環、循環、鈍感ドグマッ

 (新高はいつか──いやもうすぐか──スマートフォンもTwitterもキーボードもフリック入力も140字も通じなくなる時代がやって来るだろうと幾らか思っていた)

 鈍感さえも渡すかよ、お前なぞに。良いから、退屈だけをやりなよ。似合いの、退屈だけをやりなよ。暇潰しに、人と会うなよ。人でなしに会いなよ、ろくでなしが良いんだろ?

 出来る事なら、“無題”と題する事すら厭なんだ。無を与えたくもないし、論外と扱いたくもない。生殺し、飼い殺し。そりゃあ、形容し難い毎日になっちまいますわな。形容詞が無い、毎日に。お願いだから関わらないでくれよ、いま形容しているんだから。

  ばぁあんっびぃっしゃあゝ!!新高は破裂した。彼は辺り一面に飛び散った:冷奴サラダ(千切りキャベツ、薄切りの豆腐、胡麻ドレッシング)、中華焼きそば(人参、キャベツ、ニラ、もやし、きくらげ、麺、紅油:ホンユー)、豚足、ザーサイ、白米、かきたま汁、ストイック杏仁、これら丼六杯に、ハッピーサッド……

 否──私は、この人を知らないが、愛していた気がする

 早稲田通り沿いで、ニコニコ笑いながら買い物袋を下げた小肥(こぶと)りのインド男二人、とすれ違う。すかさず篠歩が云った──
 「あ、クシーの人だ」
 「そんなどこぞのアイドルみたいに」
 「芸能人の誰々だ!みたいな」
 「そうそう、ただ仲良く買い物しているインドのおぢさん二人だから」
 「世間からしたら、誰?っていう」
 二人は笑い合いながら世界一幸せだった、と同時にそれが終わるという事も感じていたから、超ハッピーサッド……

 ※クシー:KHUSHI(東京都中野区大和町一丁目にあったインド・ネパール料理屋)

 否──いや、そうぢゃなくて、確かに愛していた

 ばぁあんっびぃっしゃあゝ!!新高は破裂した。彼は辺り一面に飛び散った:冷奴サラダ、中華焼きそば、豚足、ザーサイ、白米、かきたま汁、ストイック杏仁、これら丼六杯に加えて、こちらもまた何度も篠歩と一緒に食べたアボカドサラダ、カチュンバルサラダ、オニオンパコダ、ナスパコダ、マライティッカ(4P)、マトンビリヤニ、チーズナン、ハニーナン、チョコレートナン(メニューには“チョコレートーナン”と表記)、ダルカレー、サグパニールカレー、マトンカレー、バターチキンカレー、ビンディマサラ、ラッシー、マンゴーラッシー、ホットチャイ(無料サービス)、そしてハッピーサッド……それからスーパーへ寄り道して買った78円のあんぱん。

 三たび、否──貴方の云う事は分からないが、貴方は、私が貴方を愛しているという事を知っている

 今日(こんにち)の日本、一昨日(おととい)の中国、遠い昔のインドの想い出たち……世自在王仏(せじざいおうぶつ)、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)ないし阿弥陀仏、お釈迦様、阿難(あなん)、ナーガールジュナないし龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)、ヴァスバンドゥないし世親菩薩(せしんぼさつ)もとい天親菩薩(てんじんぼさつ)、曇鸞大師(どんらんだいし)、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)、光明寺和尚(こうみょうじかしょう)ないし善導大師(ぜんどうだいし)、恵心僧都(えしんそうず)ないし源信僧都(げんしんそうず)、法然上人(ほうねんしょうにん)ないし源空上人(げんくうしょうにん)……そして親鸞上人。

 全部私だったのかもしれないなんて、一番信じられない事が起きて、それをだから、いま形容しているんだから!!

 コケコッコォヲヽ!!

 黙ってろよ、黙っていれば平和なんだよ、幸せなんだよ。そう言って、周りが黙って聞いてくれたとして、そう訊いてくれたとて、手前からまた、話し出すのが人間だ。幸せとは、平和であるとは、黙るとは──語り出したくなる独りでに、独り占めの快楽に、独りぼっちの特権に、平静に。それは、昭和の後の、平成に似ている。喧々諤々(けんけんがくがく)の時代の、余韻が残る、その後に起こる、あれに似ている……

七日目の午前

彼はそのようにして、神であることから休息したのだ……神はすべてをあまりに美しくつくってしまったのだ……悪魔とは七日目ごとの神の息抜きにすぎない……
-フリードリヒ・ニーチェ

 新高は見た、突然道が拓(ひら)かれるのを、張り裂けた心身に蒙(もう)が啓(ひら)かれるのを。

 “そもそも小説にして、物語にしてはいけないものなど無いだろう、君の生活や、私の人生に傷が付いてしまうから悪業(あくごう)に成るのだろう”

 先公の河山徹二(かわやま てつじ)に、皮下の脂肪が、自ら成すのを、平舘篠歩(たいらだて しのぶ)の性器に、内蔵の臓器が、我を為すのを。

 “そもそも想像して、創造してはいけないものなど無いだろう、こう書いて、あれこれ描いてしまうから犯罪に為るのだろう”

 どんどん書いてやれ、手が止まらない、どんどんやってやれ、手が止まらない、どんどん書いてやれ、手が止まらない、どんどんやってやれ、手が止まらない!!


~~~~~~


この世を踏まぬ赤子の四足
二足になったは何時だった

何時頃ぼくら立っちまった
止めてやれば良かったな

人生やり直しがきかぬから

昔は嫌いだった処
処が今は好きな処

人生のそういう処が好きだから

やり直されてたまるかよ
ずっと死ぬ気でやって来た

もう一回は御免だ
もうお腹が一杯だ

普通が如何(いか)に有難いか
普通が如何に尊いか
普通が如何に普通でないか

そういう意味で私は普通

この世を踏まぬ年寄りの杖
機械的に二輪を走らす知恵

先祖帰りて生まれ直し
逝かせてやれば良かったな

人生やり直しがきかぬから
循環・輪廻やってられっか


天上界-なぜ野暮な事柄ほど心に引っ掛かるか、この心から去らぬか、それ、ちゃんとした別れの言葉を待つ為に、あゝ卒業、卒業式、儀式のこと

人間界-寝不足の顔色の悪さ、この私を揶揄(やゆ)する奴は決まって、安心しきった人生から目覚める事のない、生涯熟睡しきった、思慮分別もセンスもない、顔色の良い野郎

修羅界-なのに私はそれを欲して求めて憧れて、終(しま)いには的外れの権化(ごんげ)みたくなっちって、誰もが苦笑いして、適当にあしらう

畜生界-勝手に忘れやがって、勝手に大人に成りやがって、勝手に死にやがって、そりゃ独りになるに決まってる、誰でも分かる簡単なこと

餓鬼界-私は幻想を愛しすぎる、想い出をさ、皆が欲しいのは身体なのにね、私は偏執狂(へんしつきょう)みたく心ばかり、手に入れたいよ

地獄界-言われたい放題に云われて“良かった……人より成長したが故なのだ”と安堵する私は、全く世俗に侵(おか)された、手垢塗(まみ)れの穢(けが)れた魂、まだまだ生きて居たいよなあ


~~~~~~


 “良い形容が浮かんだぞ!
 修行にしては楽しすぎるし
 娯楽にしては苦しすぎる
 それは何だ人生か?

 いいや、平成だ!!”


 高円寺から497.8キロ離れた処の、実家の奥の仏間の、その仏壇の結構な障子と、両の雨戸をそっと音も無しに閉じたらば、もう阿弥陀様もお釈迦様も、親鸞上人の尊容(そんよう)も、祖母のボロボロになった正信偈も見えなくなって、すると居間の方から「昂、まだ神さん参っとるのか、早よご飯食べに来い、冷めっぞって呼んでやれ」「昂は、遺影(じいちゃん)に挨拶しに行く云うて、仏壇(あっち)行きましたよ」という、祖母と母親の話す声が聞こえた──本当はこのまま現実の、即ち内陣(ないじん)から放たれた外陣(げじん)の、時の令和の世界へ再び帰るのが、人間の理解というものを最も得られると思うのだが、ここは物語の話の筋を考慮して、平静に留まろうではないか、不思議な事に、思議を超えた処に、そこは想い出の中の、既に存在しないはずの、紛れもない平成に違いなかったのだから──新高は何だか、心から嬉しくなった。言いそびれた事を今度こそ言えるのだ。

 “夢落ちぢゃない、その真逆をやってやった!!今に見てろよ、貴様ら!!読めっぞ、これ迄のこと!!もう誰にも普通と云わせんぞ、これから何年先もずっと!!一陽来復 逍遥自在(いちようらいふく しょうようじーざい)、気韻生動 豁然開朗(きーいんせいどう かつぜんかいろう)、松柏後凋 榑木之地(しょうはくごーちょう ふぼくのちー)……”

 青空にちょうど溢れんばかりの太陽が、或いは正午を常に繰り返すかの様に、甚だ白昼夢の体(てい)であった。時も移ろわぬ古(いにしえ)みたいで、即ち全て取り込まれてしまったみたいで。


 何時か無気力な夜空に見た、月の跡にすっぽり、填(は)まって光、輝いてらあ

 ツァリンツァリン


(完)


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