今から11年前──このブログ随筆やバンド活動をやり始める少し前のこと──2015年の正月に、父方の実家で何となしNHK「100分de名著」の新春スペシャル(“日本人論”特集)がやっていたので居間でぼうっと観ていたら、ばあちゃんが後ろから「えらい良いもん観とるで」とニコニコ話し掛けてきた(何故だかよく覚えていないが、居間にはばあちゃんと自分の二人しか居なくて、家の者はみな出払っていた様だった)。その時、テレビ画面に映っていたのは“加賀の三太郎”の一人・鈴木大拙(本名“貞太郎”)で、紹介されていた著作がこの「日本的霊性(1944)」であった。
日本的霊性をここに書き綴ります──わたくし大拙七十五歳です──いえ愚禿(ぐとく)憲宏三十七歳でございます。ちょうど執筆当時の大拙の、あたしゃ半分の歳なので、こいつぁ中拙(ちゅうせつ)でも良いですね。而(しこう)して日本的霊性なのですね──決して日本的“精神”ではありませぬ──断じて大和魂でもありません。ましてや人々を右(ないし保守)へ左(ないし革新)へ導こうと躍起(やっき)になるものでもございません、よくある二項対立でも二者択一でもいけません、かといって三者三様とか三者鼎立(さんしゃていりつ)でもないのです。
そうです、精神(こころ)と物質(もの)が、矛盾ないし相克(そうこく)/相殺(そうさい)を免れぬ時、その二つを包括(ほうかつ)し、二つでなし一つとし、一つでありながら二つとするもの──これが霊性である。(二元論的なる)精神とか物質とは、次元が違うのだ。或いは、霊性を“宗教意識”と言い換えても良いが、宗教という言葉を“迷信”の別名と誤解する人が多い為(これは昭和19年当時も令和8年現在も同じ)、だから“霊性”という言葉を用いるのである。霊性は無論、我ら大和民族に限った話ではなく、(成熟した文化を持った)世界中の民族──漢民族や欧州の諸民族など──にも見られる普遍的なものである。
それでは、“日本的”霊性とは何か──浄土系思想と禅である。これら日本的霊性の内、情緒的なる展開が浄土系思想であり、知的なる展開が禅である。浄土系と禅は共に、仏教における代表的な思想と云えるものであり、しかしその仏教というのは外来宗教であるからして、それを日本的とするは大いなる誤りではないか?否、仏教の伝来とは主に儀礼的なものに限った話であり、仏教の儀礼的なものと日本的なもの(霊性)とは無関係である!と断言したい。
まず、浄土系思想は──古代インドで生まれた後(のち)、中国で漢訳された“浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)”を根本経典とする──日本最大の仏教宗派“浄土真宗(じょうどしんしゅう)”として、我が国に広く根付いた。しかし、その様な真宗信仰はインドでも中国でも見られず、“他力(たりき)”とか“横超(おうちょう)”といった真宗の重要概念は日本(法然-親鸞)独自のものであり、これこそがまさに日本的霊性の発顕(はつげん)であった!先に述べた通り“霊性”を“宗教意識”と言い換えても良いが、これこそがまさに日本的宗教意識の発露(はつろ)であり、それがそのまま浄土真宗の発生であった……その開祖である親鸞は、師・法然に留(とど)まらず、聖徳太子まで遡(さかのぼ)り、恐らくは日本的なる霊性を自覚するに至った──西洋的二元論で決して導かれる事のない、莫妄想的/無分別智(まくもうぞうてき/むふんべつち)。
また、禅は中国で生まれたが、漢民族の生活には定着せず、こちらも大和民族の方に広く浸透した──てか、日本人の生活がそもそも禅的であった!禅のルーツもやはり南方系・インド民族の思想にあり、それが北方系・漢民族によって論理的に実証(ないし発明)され、また南方系の日本的霊性と邂逅(かいこう)したって訳。つまり大和民族は、南方系・インド民族の(論理性でなし)直覚性を禅に見出し、そこに日本的霊性の姿を見(み)、安堵し、満足し、勝手に腑に落ちたのである……鎌倉武士達はただちに禅院(ぜんいん)を訪れ、時(とき)同じくして法然と親鸞もまた日本的霊性に目覚めたのであった。
平安以前、日本最古の和歌集「万葉集(780頃)」には(天皇から庶民まで)古代日本人の生活ないし精神世界が描かれている。人々と自然との戯(たわむ)れ、産まれながらの人間の情緒そのままに、しかし大した反省や思索もなく、その精神に深いものが見られるとは言い難い。すなわち宗教的な反省や深さが無い。神を歌ったものもあるが、そこに人間以上の神はなく、願い事が叶わぬならこの名も命も捨ててやる(だから神様お願いしますよ!)、と取引するよな自暴自棄な歌も散見される。神の尊厳性が希薄だ。やはりここに宗教は無い。天皇や皇族の死を悼(いた)む挽歌(ばんか)に宗教心の萌芽(ほうが)は見られるが、ただ悲しいと泣いたり嘆いたりするだけで、宗教的な内省を持つものは無い。ここに日本的霊性なるものは皆無である。
平安時代、この長き400年の間に万葉の思想は洗練・深化された(そして次代の鎌倉にて、遂に宗教的自覚を得る事となる)。繊細で、女性的で、優美で、感傷的なる平安文化……その中心となった京の都(みやこ)には、文芸・美術・宗教・学問があった。「万葉集」が平安以前の古代日本の情緒を表していた様に、「古今和歌集(913頃)」には平安時代の人々の精神がよく現れている──彼等は何かと泣いている、常に袖を涙で濡らしている様だ。或いは「源氏物語(1008頃)」における貴族の恋愛、政治、官能、文学。或いは「枕草子(1001頃)」における上品さ、優雅さ、そう、みやび。しかしそこに宗教的、霊性的な深さは無い。現世肯定的な、現実を受け入れるだけの世界で、宗教は育たない。万葉の原始性に比(ひ)して洗練・深化した、というだけで。仏像も仏教学者も仏教的儀礼もあった。が、本当の意味での仏教をまだ知らなかった。古今集、源氏、枕草子……これら歌集、物語、日記に見られる憂愁、無常、もののあはれは、(漢語文化に対する)日本語・大和言葉で表現されたものとして、我ら固有の独自性を確立したものとして、もちろん特筆すべきものであるが、甘い。まだ、淡い。宗教や霊性というのは天上界のものの様で、その実は大地にある。故に平安人には宗教や霊性が無い。平安人とは──大地を踏まぬ──貴族である。人間は天に対して受動的であらざるを得ぬが、地に対しては能動的に振る舞う事ができる。そして平安人までの日本人は、ただ受動的であった……いや、大地を知らぬ貴族達の歌や物語がそうなのであって、他方、実は都の外の地方においては、大地に親しむ(真に能動的な)ものたちが居た──農民と武士である。歌詠(うたよ)み女の部屋の戸を叩く優男(やさおとこ)より、生命の真実を把握していたのは農民と武士であった。平安人の観念ばかりの政治や思想に取って代わるべきものは、農民と武士の宗教的真実その霊性であった。霊性とは、決して影の薄い化け物なんかではない。霊性は、生命そのものである。霊性は、大地に関係している。平安時代後期、地方においてはその様に、次代を担う勢力が潜在していたのだった。そして、平安文化は大地からの文化に、公卿(くげ)は武家に置き換えられた。
鎌倉時代、日本人は宗教ないし霊性に目覚めた。平安の400年は無駄ではなかった──この鎌倉がやって来(きた)る為に。まず浄土系思想、浄土宗・真宗の展開。次いで、禅宗の伝来。“日本的”霊性とは何か──浄土系思想と禅である。とは前にも一度書いた。或いは、“蒙古襲来”という海の外からの敵性勢力(モンゴル帝国)に、初めて“我が国”というものを考えなければならなくなったということ──日蓮宗(にちれんしゅう)や伊勢神道(いせしんとう)の発生。万葉の日本精神は謂(い)わば原始的・幼児的であり、平安においてもまだ霊性を見出す迄(まで)の内省・反省は見られなかった訳だが、鎌倉においては遂に国内外からの圧力によって政治的大変動がもたらされ、宗教意識ないし霊性の覚醒を促される事となったのだ。そう、霊性の扉は開いた──浄土教の終極はここ──真宗は庶民のものとなった。鎌倉の精神は大地の精神であり、大地の精神は親鸞の精神であり、親鸞の精神は鎌倉の精神である。であるから鎌倉の世において、親鸞による浄土真宗が花開き、それは大地に親しき庶民のものとなった。そもそも流罪(るざい)となった親鸞の越後(えちご=新潟)での生活は過酷なもので、僧でも俗でもないもの(非僧非俗)で、またこの時から“愚禿親鸞”を名乗るようになったのであるが、その後すぐに京の都へと戻らずに、常陸(ひたち=茨城)を拠点に20年も布教活動を行なったのは、親鸞がここで初めて大地なるもの/日本的霊性なるものに開眼したからである。
令和時代、鎌倉とは何も遠い昔の話ではなかった。今の時代を見よ──国内外からの圧力による政治的大変動を。この人を見よ──日本的霊性なるものに開眼した男・憲宏を。だから私は親鸞に興味がある。こうして本を読み、親鸞の(日本的霊性ないし仏教者としての)生き方を知ろうとする。ご住職さんより“念仏者”と云われた、父方の祖母に(日常的念仏者もとい仏教者としての)生き様を見ようとする。念仏者とは仏教者である。そして仏教者の使命は、時局に迎合するものであってはならぬ。親鸞の様に、ばあちゃんの様に、私の様に。カルト教団なんかと一緒にされては困るのだ。スピリチュアル宗教とは全く訳が違う。教祖など知らん。インフルエンサーみたいな承認欲求も要らん。われ実践者、念仏者、仏教者である。
仏教の実践とはつまり、日本文化において最も世界的意義を持つものであり、日本的霊性の自覚それ自体である。大半の人は、仏教をインド由来のもの、外国から輸入されたもの、純粋に日本のものでなし、と考えるやもしれぬが、ならば今日(こんにち)の我々の生活様式一般──衣・食・住のいずれも──は日本のものでなし欧米のものなのか?やはり日本的なるものは平安以前の古代にしかないものか、否、先述(せんじゅつ)した通り平安とか鎌倉にあるのか、否、もっと下(くだ)って江戸か明治か、三たび、否、俺の大好きな文学や音楽が百花繚乱の大正とか昭和か、もし本当に昭和ならば昭和の初期か末期か、いやはや一体全体どこにあるのだ?以上、“日本的”には確固たる概念が無い。実用的に役立つなら最早(もはや)立たせて良く、外国も日本も大した問題ではない。しかし、それが霊性ともなると話は違う。日本的という事を表面的・地域的・時間的にのみ考えてはならぬ。例えば、時間的には仏教が日本に来てから千年以上も経過している。千年は長い様で短く、また短い様で長い。一人の寿命の十倍以上の長さにはなるが、たった十人位の人生の長さでしかない。それだけの時間を掛けて植え付けられ、芽生え、花咲き、実を結んだ仏教である。
オランダから輸入されたチューリップやヒヤシンスといった草花があって、初めの年はオランダの花を咲かすけれども、2、3年経つと日本の風土に同化し、日本的チューリップ、日本的ヒヤシンスとなるのだ。或いは、日本で盛んに栽培される菊の花が一度(ひとたび)イギリスへと渡れば、それは英国による英国なりの立派な菊となり、更に言えば、菊はもともと中国から日本へとやって来ており、日本に来ては日本的となり、ヨーロッパへ行ってはヨーロッパ的となるのだ。中国の菊だから、日本で咲こうが中国の花、ヨーロッパで咲こうが中国の花、では断じてない。菊は菊として、菊たる所以(ゆえん)を全(まっと)うしており、地域的にのみ菊を見るべきではない。菊の生命の在る処に目を向けるべきだ。これが草花でなし精神・文化の事となると数年、十数年の話ではなく、少なくとも百年、数百年の年月を要するはずだ。仏教が日本に来てから千年以上も経過している──(たとい仏教がインド由来のものであっても)仏教が日本的なものとなるに十分の歳月はとうに過ぎた、と云っても過言ではない。充分な歳月を経て、仏教は日本化し、あまりにも日本的なものとなった。というよりも、もともと日本的霊性なるものがあって、その霊性が仏教的なものと鉢合わせた、と言うべきである。
そもそも仏教がインドで生まれたのは今から2500年前(紀元前6世紀頃)で、千年ほど発展し続けた後、仏教は彼(か)の地で途絶(とぜつ)してしまった。それから一方は中央アジアを経由し、またもう一方は南アジア(南海方面)を通り、中国へと入ってきた。仏教は、中国の北からと南からと入ってきたのである。しかしながら仏教はインドそのままの姿で、中国に受け入れられた訳ではなかった。中国の人々は仏教に反発した(同様に日本でも仏教が入ってきた当初は、反対する人々が多数居た)。仏教ではお坊さんとなるに出家し、独身生活を貫き、殺生をせぬ、という戒律を守らねばならぬ。しかし実用主義的で、実証性を重んじる中国の人々(漢民族)は、子が無ければ親に孝を尽くし得ない、先祖の伝統を絶つ事になっては不孝この上ない、と考える人が多いので、インド的仏教生活と矛盾・反発してしまったのだ。更に中国では(今日でも依然として)、豚とか羊の丸煮に牛までも加えて“太牢(たいろう)”と称した大騒ぎをやる。この三種(の生け贄)がないと祭祀(さいし)は完全なものとならない。先祖を十分な儀礼によって祀(まつ)らなければ、これまた子孫として不孝この上なく、だから“生き物を殺すな”という仏教が入って来られては困るのだ。それが何故に受け入れられたのか?漢民族は、インド民族の提唱する仏教的思索に反論・抵抗すべきものを持っていなかったのだ。実際、先祖の伝統を絶つ事になっては不孝この上ない、とする点においては仏教に反対するが、思想・理念・哲学・宗教論理においては、中国の人々はインド的なものに反抗・反駁(はんばく)しなかった。すなわち仏教は、インド的なものはインド的として保ちつつ、中国的なものまで取り入れ、中国化したのである。こうして中国仏教というものが生まれたのである──一方では禅宗となり、他方では浄土系の念仏となった。
日本のアサガオを欧米の何処(どこ)かへ持ち出し、初めの年は日本のアサガオを咲かすものの、2、3年するともう西洋のアサガオとしてしか咲かぬ様に、インドのものを移して来て、中国の地面で作り上げられた仏教、つまり漢民族的霊性から生じた中国仏教があった訳だ。ただし、日本の大和民族の様に生活の真っ只中までそれらが入り込む事はなかったという処に、中国の漢民族の生活に禅や念仏と渾然として一つ流れと成り得ぬものがあったのではないか。また念仏に関するお経はインドから来たが、念仏宗(ねんぶつしゅう)とも云うべきものは中国でないと出来なかった。そうしてその二つが日本へと入り、日本的霊性がそれを日本のものにして、それらは次第に日本的な特徴・特異性を持つ様になったのである。そこんとこ、詳しく見てゆく。
仏教は何事も無く日本に取り入れられると思われたが、やはりその際にも論争があり、政争があり、宗旨(しゅうし)・宗派の分かれる事となった──華厳(けごん)も天台(てんだい)も三論(さんろん)も唯識(ゆいしき)も倶舎(くしゃ)も入った。今日それら宗旨・宗派は理論として研究されてはいるものの、生活の中には少しも取り入れられていない。奈良時代に繁栄したとも云われるが、いずれも上流階級においてであって、概念的・享楽的に流行したに過ぎない。なかなか日本的なものとならず、日本的霊性はまだ仏教を通して現れるという事はなかった。それが次第に日本に落ち着き、日本的霊性の洗礼を受けた。インドのものでも中国のものでもない“日本仏教”となった。と同時に、日本仏教はあらゆる東洋性をも兼ね備えていた──インドで発生したのでインド性を持ち、それが中央アジアを経由した事でその地方性も加味され、更に中国において一大転換があった為に中国性も十二分にあり、最後、遂に日本へと入って来て日本的霊性化したので、日本仏教は全ての東洋性を内包(ないほう)・包含(ほうがん)していると言って良い。仏教は更に、南アジア方面をも経由してきた為に、北方民族的性格だけでなし南方民族的性格も、インド的直覚力も中国的実証性も、みな同様に具有(ぐゆう)しているという事である。日本的霊性が中枢となり、それらを生かし、活(い)かしているのである。
インドでは、仏教という宗派は絶(た)えてしまった様だ──伝統的カースト制に反対した仏教は、政治的勢力を失った。しかしそれでも、その精神は他宗派の中に取り入れられた様だ──武力にも権力にも頼らず、無抵抗主義で抵抗したガンジーが如き大人物(だいじんぶつ)は、この精神に生きていた一人であった。また、仏教がインドで今日まで流行らなかった主たる原因は、余りに抽象的に概念化し、生活そのもの、大地に根差した生活と乖離してしまったが為である。山を山と、水を水と見るのが具体的な見方で、水を冷(れい)と、湯を暖(だん)と感ずるのが具体的な感じ方で、これは大地を離れぬ見方・感じ方であるが、有が無で、無が有であるとか、心が、意(い)が、識(しき)がどうのこうの云うのは全て抽象的で、中論(ちゅうろん)も識論もみな概念的で、大地を離れているのだ。元来が行為であり、生活である処の思想が、大地との繋がりを断ち、ふわふわと風船が如くなれば、人間に対しての迫力を失ってしまう。そんなインド仏教が、漢民族の実証性、実技第一主義の中で再生されたのだ。
中国は、四書五経(ししょごきょう)の国である。中国には「ヴェーダ(バラモン教の根本聖典)」も「ウパニシャッド(古代インドの奥義・哲学書)」も「華厳経(大乗仏教を代表する仏典の一つ)」も「マハーバーラタ(「ラーマーヤナ」と並ぶインド二大叙事詩)」も無い。インド民族の自由な想像力と奔放な思索とは、中国の実技第一主義によって初めて何か役に立つものとなる。仏教も現世利益(げんぜりやく)でなければならぬ。インドの空想と中国の実証が融合し、日本へ来て日本で育(はぐく)まれたのであるから、謂わば我々は全てご馳走の旨い処をみな吸い上げたのである──それが一方では禅となり、もう一方では浄土系思想として現れて念仏として受け入れられたのだ。
それまで長い間、外国との交通が途絶していたのが鎌倉時代になってまた始められた、という事実も、日本(的霊性)史において見逃すべきではない。入宋(にっそう)の僧侶達が新しき大陸の空気を吸って、再び日本へと帰ってくる。沈黙を守るしかなかった庶民階級の思想と感情が、武家文化(大地の精神)を通じて聞かれる様になる。武家階級は禅道に入り、庶民階級は浄土思想を創(つく)り上げた。武家文化は更に公卿文化を統合・包摂(ほうせつ)し、禅の精神を日本人の生活および芸術に深く浸透させた。浄土系思想の方は日本的霊性の顕現(けんげん)として、大地に親しむ多くの人々(主に庶民)の中に結実した。
繰り返しになるが、平安時代は女性文化の時代であり、公卿文化の時代であった──先(さき)の奈良時代における雄大豪壮(ゆうだいごうそう)なるに対し、平安時代は繊細優美(せんさいゆうび)であった。紫式部、和泉式部、清少納言といった女性達が居た事は、日本の誇りではある。佶屈聱牙(きっくつごうが)たる漢文字に対し、“女もじ”を考え出し、それを自由自在に駆使し、柔(やわ)く細(こま)やかな感情を表現した平安の女性は偉かった。そして男(紀貫之)もまた、「をとこ(男)もすなる日記といふものを、をむな(女)もしてみむとてするなり」と(女のふりをして)女文字を使い、初めて日記を書いた──何とも"粋"な男のバーニン日記 –Nori MBBM no Blog–が如し(蛇足、失敬!)。自然に対する優しい心持ち、刻一刻と移り変わる時節について、きめ細やかに触れゆく神経……これぞ日本女性ないし女文字の表現である。
こうした仮名(かな)文字の発展・発達が、どれほど日本思想の独自性に寄与(きよ)したか。漢文字と漢文学とに支配されている限り、日本思想に自在たる立場は無かったろう。江戸時代に国学(こくがく)が盛んとなり、自らの主張を持つ様になったのも、仮名文学に負う処が大いにある。屈伸(くっしん)に自由が無く、連結も緊密でない漢(文)字においては、思想の表現も自らそれに制せられるからだ。仮名文学が無かったら、明治維新の大業(たいぎょう)も成し得なかったろう。海外の文学・思想・技術などは、仮名文字の屈伸性・弾力性・連結性などによって、国民の精神へ自由に取り入れられたのだ。平安女性の創造の天才に今一度、感謝せねばならぬ。日本文学が男の手だけに委(ゆだ)ねられていたら、日本文化は漢文学の圧倒的勢力から容易に脱する事は出来なかったに違いない。漢字・漢文・漢文学には独自の腕力があり、それ自体おもむきがあり、こちらも中々捨て難いのではあるが、日本は中国でないから、であるから決して中国の延長であってはならないのだ。従って“大和魂は日本女性によって発揚(はつよう)せられた!”と言わなくてはならぬ。
しかしその長所が、そのまま短所その欠陥ともなる。和(やわ)らぎは良いが、骨がなくてはならぬ。柔らか味(み)は良いが、女々しさばかりは歓迎できぬ。時に泣くのも良いものではあるが、いつまでも涙ぐましいでは埒(らち)が明かぬ。大和民族の感情的なる性格は、日本女性によって代表されるものとなったが、実際の生活は感情だけでは立ち行かない。理智も霊性も必要不可欠である。平安時代においては、その機がまだ熟していなかった。感覚から感情、感情から霊性という順に、次第に深まり行くには、幾らかの年月と政治的・社会的な試練を通過しなければならなかった。女性文化は温室の、箱庭(はこにわ)で出来るものだ。平安時代とは箱庭に生きた時代であった。風に当たらず、雨にも濡れず、平穏無事に育つ苗(なえ)はかよわい。丈夫な大木は、暴風雨に曝され、吹き飛ばされそうになっても、深く大地に根を張らねばならぬ。強靭な根幹(こんかん)は、もののあはれの世界で成長せぬ。もののあはれは今一度、試練を乗り越えねばならぬ。霊性へと行く前に、感覚や感情など感性の世界が再検討されねばならぬ。今まで直覚した世界は、まだ徹底したものでなかった、と思い至らねばならぬ。そう思い至ったが、鎌倉時代であった。大和民族の宗教意識が、自己肯定をやってのけたのだ。
奈良時代、或いはそれ以前より、法隆寺や東大寺といった仏教建築があって、大仏も既にあった訳だが、それらは日本的霊性の顕現にはおよばなかった。平安初期の仏教的な盛り上がりも、概念的かつ抽象的で、有閑者(ゆうかんしゃ)の遊戯的なものに過ぎなかった。日本的霊性の真剣な発揚が無かったのだ。自分自身の力を自覚するには一度、崩壊を経験せねばならぬ。対外的な何かにぶつからなくてはならぬ。鎌倉時代はその機会と条件を与えた。平安末期の政治的・経済的不安、国難到来の予兆、人心の乱れ──永承7(1052)年から末法の世に入る、と信じられた“末法思想”──によって、皆もののあはれを鑑賞するだけでは居られなくなったのだ。その時、国民は霊性の上に深き振動を感じ始めたに違いない。
やはり“元寇(げんこう)”という歴史的大事変は、我が国の上下を通じ、国民生活の各方面に渡って、並々ならぬ動揺を生じさせたはずである。こと精神的な面において言えば、国民の多くが“我が国”という事について、深く考えさせられたであろう。神道家が“神道-我が国の神の道”というものを意識し始めたのも、鎌倉時代である。それ迄にも考えられなかった訳ではないが、“外国”という事を意識した上でのものではなかった。親鸞上人が我が国の教主(きょうしゅ)として聖徳太子を認めだしたのも、漢由来の仏教という事に満足しなかったからである。日蓮上人はもっと鮮明にこの点──我が国の何たるか──を意識していた事だろう。日本的霊性は、鎌倉時代にその中心を据(す)えるべきなのだ。
令和八年、霊性は現世に対する深い反省から始まる。この反省は、因果の世界から離脱し、永劫回帰の願いに進む。業(ごう)の重圧から遁(のが)れたい、という願いが昂(たか)まる。これが自力で無理だ、となると因果の束縛/呪縛(じゅばく)から離してくれる絶対者/大悲者(だいひさ)を求める事となる。業の重圧を感じられぬなら、霊性には触れられぬ。これが仮に病的な考えだったとしても、その病(やまい)というのに一度取り憑かれ、それから再生を経ない限りは、宗教/霊性の話などみな解せぬ。病的と思う人は、一度もその経験が無かっただけだ。
平安までの“もののあはれ”は、まだ感情の世界をうろつくばかりで、霊性の動きが認められない。自己を尽くしていない。病気に罹(かか)っていない。自己否定の経験が無い。病気とは、この経験である。世間一般で云う“病気”は、肉体の否定である。この否定によって、肉体の実在とやらに遭(あ)う。ここに人間と動物の差を見る。宗教意識はここで初めて息をし始める。業の重さはここまで来ないと感ぜられぬ。原始的な生活を送っている限りは無理。神ながら──随神/惟神──の世界は一度、反省せられなければならぬ。この反省/病気/否定/経験を通過した後の生活は、原始の範疇(はんちゅう)に無い。ここで感ずる“もののあはれ”は、平安歌人(かじん)のものより徹底している。“物自体(カント!)”に触れている。平安歌人は“時の人これを見ること夢の如くに相似(あいに)たり”の境涯(きょうがい)で、分かっている様で未だ分かって居ないのである。かつて平成時代の──死を、すなわち生を知らなかった──わたくし憲宏である。
感情や感覚、それに思慮分別など、元来が霊性の働きに根差しているのだが、霊性それ自体に突き当たらぬ限り、根無し草の様に──今日は此岸(しがん)、明日は彼岸(ひがん)、と──浮浪(ふろう)的生涯の外に出てゆく事が出来ない。これでは個人の生活である。個人の根底にある超人(ニーチェ!)にまだ出逢えていない。普通、人は個人の世界しか見ない。全体主義とか虚無主義とか何とか主義とか云った処で、なお個人を離れていない。その束縛を受けている。超人は、個人の世界には居ない。その“人”と云っても、個人の上に動く人ではない。森羅万象を払い除(の)けて、そこに残る人でもない──そんなのは、まだまだ個人だ。超人は、個人と縁が無い人でなし、大いに個人と縁がある人だ。全く離れられぬ縁がある。個人を離れて存在し得ない。しかし、個人は超人ではない。やはり、超人は不思議である。思議(しぎ)を超えている。“一無位(いちむい)の真人(しんにん)”である──何ものにも囚(とら)われない真の主体である。“万象之中独露身(ばんしょうしちゅうどくろしん)”である──森羅万象の中で唯一絶対なる身である。この人が感ずる“もののあはれ”こそ、日本的霊性である。
超人が、本当の個人である──「歎異抄(1288)」における“弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願(がん)をよく/\案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり”の“親鸞一人”である──「百条法話随聞記(1944)」における“この界にわろき者はわれ一人、地獄へ行くもわれ一人、浄土へまいるもわれ一人、一切みな一人一人と覚へにける”の“一人”である──いつか霊性に憑かれ著(しる)した己が処女作「
六界記紀(2022)」の“憲宏一人”である──真宗信者はこれら“一人”を徹底する事で、日本的霊性を会得(えとく)する。
真宗的ないし浄土系的な日本的霊性と、禅的な日本的霊性と、両者の間には相異(そうい/あいこと)なる点が認められる。つまり前者は個人の方に超人を見、後者は超人の方に個人を見る。それで臨済(りんざい)は“一無位の真人”と云う──そこには知性的な響きが聞こえる。真宗では“親鸞一人”ないし“われ一人”と云う──ここには個人の姿が現れている。しかし、禅の場合でも“一棒一喝(いちぼういっかつ)”の上に個人を現出させている。で、真宗の方では“南無阿弥陀仏のみぞ”とも云う。禅宗は知性的に進展してゆき、真宗は情緒的に展開してゆく。知性においては概念性が加わり、情緒においては具象(ぐしょう)の一々に取りすがる。禅宗においては浄土往生の念仏は分かっても、真宗のわれ一人の為の本願は解らぬ。が、こうした相違に囚われないで、“日本的霊性とは、超人であり、個人である”という処に自覚がありさえすれば良い。
超人が個人一人一人であり、かつまた個人一人一人が超人にほかならぬ、という自覚は、日本的霊性でのみ経験せられた。インドで生まれた浄土系思想は、中国に来てそれそのものの基礎概念となったが、千年の月日を経ても真宗的浄土思想とはならなかった。漢民族の心理には“超人即個人、個人即超人”を攫(つか)むものが出現しなかった。一人一人の往生という事は意識せられなかった。真言系の思想には、“法身説法(ほっしんせっぽう)”の説、“即身即仏(そくしんそくぶつ)”の説などがあって、よほど真宗的浄土思想に近いが、情緒的には把握されていなかった──個人の超人的経験が。経験とは個人の上でのみ有り得る事象だから、超人的な意味は成さないと考えられる。しかし、この経験はまた個人の限られた意識の上だけでは生(しょう)じ得ないので、どうしても超人的な視点で見ないと解せないのだ。これを“信(しん)”と云って、普通の“知(ち)”、または“解(かい)”、或いは自“覚(かく)”などとは、はっきりと区別されたい。他の宗教では“神の天啓”とか云って、これら人間理性の限りでなく、ただそのままに受け入れるべしであると──宗教意識の受動性はここに在る。しかし日本的霊性には情緒的なものが多分にあり、霊性とは情緒を辿(たど)るものなのだ。
日本的霊性は、個人の情緒的な面で発動す。中国の浄土系思想が日本で育まれると、その面で進化/深化していった。法然上人が浄土一宗(じょうどいっしゅう)を創(はじ)め、親鸞上人がその中に含まれていたものを意識的に抽出した。親鸞上人が中国でなし日本に現れた、という事に意味がある。法然上人に続いて現れた、という事にも意味がある。法然と親鸞とを一人(格)と見るのが、妥当である。親鸞の背後には、中国における浄土系の千年がなくて、日本的霊性の千年があった、という事に意味がある。それが鎌倉時代であった、という事に意味がある。
日本における親鸞の出現が、中国における賢首大師(けんじゅだいし)や智者大師(ちしゃだいし)の様であったら、親鸞の教説は華厳や天台と同様に長続きしなかったであろう。賢首も智者も東洋の偉大な宗教思想家ではあるが、彼等には全くインド的なものが抜け切らなかった。彼等の思想は、漢民族の精神そのものからの土着的発生ではなかった。しかるに親鸞の“一人一人”的経験は、大和民族の精神的生活、すなわち霊性自体からのものであった為、日本人の心理に深く働きかけたのである。そしてまた、未だ働きかけている──少なくとも、わたくし憲宏一人に。
法然-親鸞の霊性的経験は、大地から獲得せられたもので、それは鎌倉時代に初めて可能なものとなった。それまでの日本的霊性は、十分に大地との連関を持っていなかった。充分に具体性を持っていなかった。個人が超人との接触・融合によって、自らの存在に目覚めていなかった。それが親鸞で可能なものとなった。親鸞はまた幾らか公卿文化の産物ではあったものの、彼の個としての存在は越後での生活で目覚めた。京都で法然上人によって洗礼を受けたのであるが、それはまだ超人というものに触れていなかった。京の文化が到(いた)り及(およ)ばなかった処に定住した時、それは初めて動き出した。具体的事実としての大地の上に、大地と共に生きている越後の人々と暮らし、彼等の大地的霊性に触れた時、個人を通して超人というものを経験した。親鸞はどうしても、京都では成熟できなかった──京都に仏教はあったが、日本的霊性の経験はなかったが為。
親鸞の本領は「教行信証(1224)」でなし、その「消息集(1689)」、その和讃、その「歎異抄」にあるのだ。真宗の学者は「教行信証」を無上の聖典と見るが、実は親鸞の真骨頂は何となしに吐露した言葉の中にある。「教行信証」が無上の聖典であるのはごもっともなのだが、そこには公卿文化、学者気質の残滓(ざんし)がある。それだけで親鸞を判断しようと云うのなら、霊性的な自覚が足りぬと言わざるを得ぬ。「歎異抄」の第二条に“各々(おのおの)十余箇国(じゅうよかこく)の境(さかい)を越えて身命(しんみょう/しんめい)を顧(かえり)みずして尋ね来たらし玉ふ”とあるが、仮に親鸞を尋ねて来た彼等を常陸地方からはるばる上京して来た田舎の人々と考えてみると、親鸞と彼等との関係が概念的・言語的・形而上学的なものでない事が分かる──彼等の繋がりは大地的だった。“南都北嶺(なんとほくれい)の学生たち”の間では見られなかったものが、ここには在るのだ。親鸞の根拠は、大地にある。大地とは“田舎”の意、“百姓・農夫”の意、“知恵・分別と対照する”の意、“起きるも仆(たお)れるも此処(ここ)においてする”の意である。親鸞は越後に流され、一個の俗人として在家(ざいけ)的生活を送った。天台や真言のお寺に居た訳ではない。いち小庵(しょうあん)というものも持っていなかった。農業に従事するほかなかった。乞食坊主として百姓の間に生息したものでもなかった。法然によって得た信心(しんじん)を実際、生活の中に錬磨(れんま)しようと考えた。比叡山に居た時の様に、その信仰を文字の上に検討しようとはしなかった。彼は既に“南都北嶺の学生たち”の一人ではなかった。念仏で往生する事の他には何ものをも持たなかった。この日常生活──俗人的・在家的・肉食妻帯(にくしょくさいたい)的生活──鋤/鍬(すき/くわ)と大地との交渉において味わわれる生活──を踏みしめて居た。また親鸞は商人に成り得なかった。猟師にも漁師にも成り得なかった。工芸的・職人的な生涯も有り得なかった。江戸時代の牢人/浪人の様に手習(てならい)/習字、読書などを村のものに教える事もなかった──当時の田舎にそんな要求は有り得なかった。それから地方の権力筋と結託する事もなかった。武士階級とも深い関係になかった。どうしても一個の百姓男として、他の百姓の間に伍(ご)して、静かに念仏の生活を生き抜かんとした。関東から京都へ尋ねて来た人々は、決して権力筋でも知識人でもなかった。親鸞は無名のいち愚禿として、在家的生活の第一歩を越後の田舎の大地に踏み出した……そしてそのまま、この歩みを関東へと続けたのであった。
大地の生活とは、真実の生活、信仰の生活、偽りを入れぬ生活、念仏そのものの生活である。流謫(るたく)の身となった親鸞は、自らの信心に大地生活の実地試験、試練を与えたのだった。彼は“念仏のみぞまことなりけり”と云って、朝から晩まで空(から)念仏のみを繰り返した訳ではなかった。それは実(じつ)念仏であり、すなわち大地に接触した念仏であった。鈴木正三(しょうさん)の「驢鞍橋(1660)」における“然間(しかるあいだ)農業を以て業障(ごっしょう/ごうしょう)を尽くすべしと、大願力(たいがんりき)を起し、一鍬/\(ひとくわひとくわ)に南無阿弥陀仏/\と耕作(こうさく)せば必ず仏果(ぶっか)に至るべし。云云(うんぬん)。”である。幾千鍬を重ねる事で業障を尽くし得るでなし、南無阿弥陀仏の一鍬毎(ごと)に幾百千劫(せんごう)の業障が消えてゆくのである。鍬の数、念仏の数で、業障をどうしよう、こうしようというでなし、振り上げる一鍬、振り下ろす一鍬が、もう絶対である。弥陀の本願そのものに通じて行く、いや、本願そのものである。本願の静かな、ささやかなる声は、鍬の一振りの上下に聞こえる。正三は禅宗のものであったが、彼の無意識は深く、親鸞の浄土真宗と相通ずる処がある。親鸞の念仏とは、大地から出て、大地へと還り行くもの、であるが故に。それまでの清浄なる概念性だけの、何ら実証的なものを含まぬ生活を振り捨てたのである──「教行信証」を生涯に渡って加筆・修正し続けたのは、青年期の煩悩がたびたび再発したに過ぎない──いや、加筆・修正その事こそが、鍬の一振りの上下、本願の静かな、ささやかなる声だったか──Are you burning?己が日毎(ひごと)のドグマ、言語体系が鍛錬(たんれん)の為の
日めくりバーニン、弥陀の本願そのものであるが如し!ドグマッ
弥陀の本願ないし超人とは、個人の霊性を通して自己肯定を行(ぎょう)ずるものである──「歎異抄」における“ひとえに親鸞一人がためなりけり”の体験である。「百条法話随聞記」における“地獄へ行くもわれ一人、浄土へまいるもわれ一人”の宗教的意識である──「六界記紀」における“憲宏一人”の(宗教的意識)体験である。「涅槃経」その三五に基づく“皮膚(ひふ)脱落してただ一真実のみあり”という薬山惟儼(やくさんいげん)云う処の一真実がそのまま一人なのである──「
平成総体(2023)」にて“ばぁあんっびぃっしゃあゝ”と破裂した新高昂(にいたかのぼる)の肉体なき後に平成そのもの/それ自体・物自体/平成総体となった一人がこのまま一真実なのである。アンダスタン?日本的霊性において、ここ結構重要だから!ドグマッ
一人の具体性とは、一人の実在性である。みやびをとこは平安において、もののあはれを感じた。親鸞上人は鎌倉において、念仏のまことを見た。前者は感性的に、花鳥風月において。後者は霊性的に、大地の上において。もののあはれは、念仏のまことに進化/深化した。花鳥風月には四季の移り変わりがあり、(その移り変わりが)もののあはれの心理に呼応するのであるが、そこに大地の鈍重性・不変性・無頓着性は皆無である。そして今一度──一人の具体性とは、一人の実在性である。これは人間が大地へ還る時、初めて会得せられる。念仏のまこと──親鸞一人──日本的霊性──超人──は、大地の真実性・絶対性・具体性・究極性と呼応する処の直覚である。京都文化・公卿文化・女性文化を離れ、鎌倉文化・大地文化・男性文化の中に認められる直覚である。「念仏はまことに浄土に生(うまる)るたねにて侍(はん)べるらん、また地獄におつる業にてや侍べるらん、総じてもて存知(ぞんち)せざるなり」と。「詮(せん)ずるところ、愚身(ぐしん)が信心におきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じ奉(たてまつ)らんとも、また捨てんとも、面々(めんめん)の御計(おはから)ひなり」と。親鸞のこの言(げん)に──涙ばかり流している平安歌人の夢想だにしなかった──鎌倉武士気質(かたぎ)の一面が覗(うかが)われる。“莫妄想!”、“驀直向前(まくじきこうぜん)!”と相通ずる処がある。真宗信仰には、何か禅的なものがある。そしてそこに、日本的霊性の特殊性を見出し得る。真宗的表現には、まどろっこしい処がなくもない(嗚呼まさに、こんなややこしい言い回しみたく!)。禅宗ならそんな長ったらしくしないで、“覿面底(てきめんてい)!”と喝破(かっぱ)するのみだろう。一方で、真宗は時間を直線的に見んとする傾向があり、他方で、禅宗は時間の円環性を固持(こじ)せんとする。而して、直線可(か)なり円環可なり、である──親鸞も往還二相(おうげんにそう)の廻向(えこう)を教えるではないか?従って“まこと”とは、霊性の世界もとい一人の世界においてのみ、見出されるのである!ドグマッ
日本的霊性なるものは、具体的かつ現実的かつ個人的かつ“われ一人”的である。かように、日本的宗教意識の原理が確立するには、中国を経由したインド的なるものによって、概念的な準備がなされなければならなかった。また、伝教大師(でんぎょうだいし=最澄)や弘法大師(こうぼうだいし=空海)など、諸高僧および諸学僧の多数が必要だった。殊(こと)に、平安末期における源信僧都(げんしんそうず)の学と徳と芸術とが必要だった。彼の名高き「往生要集(985)」は、どのくらい当時の民衆を動かしたのかは分からぬ(南都北嶺の学生たちの間で、話題となっただけやもしれぬ)。しかし、彼の芸術は視覚に訴えるものがあり、これに触れたものは、異常な興奮と感動を覚えたに違いない。また、彼の芸術は彫刻をはじめ、絵画(絵巻物)として伝写(でんしゃ)せられるなど、
多くの模倣者を生み出した。“地獄変”なるものは、平安末期から鎌倉時代に入って、随分と描かれている様だ。漢文の書物が分からなくとも、また高僧の道徳に接しないでも、紙片(しへん/かみきれ)に描かれたものは、誰の目にも入り、彼の心をも動かすのだ。
源信に次いでは、法然である。この二人がなかったら、親鸞もなかった。法然は源信より時代が下がっているので、割と近寄りやすい。源信はまだ聖者の風(ふう)であるが、法然の方はよほど親しみやすい。「一枚起請文(1212)」として知られる彼の遺言は、親鸞より一歩手前の大地性を帯びている。親鸞ほどに徹底してはいないが、そこには日本的霊性の直覚がある──法然と親鸞とは二つの人格でなし一人(格)である──法然は親鸞において生まれ変わって出たのだ──日本的霊性はまず法然に目覚めて親鸞へと引き継がれた。法然は晩年(75歳)に田舎へと流され、一文不知(いちもんふち)の愚鈍(ぐどん)なる人々に多く接し、彼等が何ら知的な振る舞いをせず、尼入道(あまにゅうどう)の無知そのままに、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」と繰り返すのを見、その純真さに心打たれた。彼が流罪となった際に“遠隔のものの教化(きょうか)が出来る”と喜んだのは、彼が他者に働きかけるだけでなし、彼自身もまた他者より学ぶべき処あるを予知したからであろう。彼は既に老齢であった為に、親鸞の様に生きた教えを弟子達へ充分に伝え得なかったが、彼あったが為に親鸞の体験も可能であったとすれば、霊性は個人に生き、しかもその個人を通じ、また超(個)人の一人であったという事が、皆はっきりと理解できるだろう。そんな日本的霊性の囁(ささや)きは、一文不知の尼入道の心にまで響き渡らなければ、嘘である。いや、一文不知であるからこそ、それが聞き入られるはずである。法然の“南無阿弥陀仏”は、地方の人々にとって福音(ふくいん)であったに違いない。法然は何ら概念的な文句を並べなかった。ただ仏の悲願と念仏とを教えるに過ぎなかった。そして地方の一文不知の愚鈍なる人々は、ただちにこれを取り入れた。日本的霊性は、かように現実的な純粋性の中から生まれ出る。この現実さと純粋さとは、ただ大地を離れていないものである。
憲宏かばあちゃんか大拙か親鸞か釈迦か、もう訳分かんなくなった。無分別智?自他一如(じたいちにょ)!さながら日本的霊性、そんな感じでさあ。釈迦は80歳、親鸞は90歳、大拙は95歳、ばあちゃんは100歳、憲宏は何歳まで生きられるのかね?未だ37歳、何とも厳しく険しい道だべ!日本的霊性って奴はよ。
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以上、「日本的霊性」のカバーでした。要は“弾いてみた”、“歌ってみた”です。俺の考えというより、大拙の考えだ。しかし大拙の考えの節々に、あの日あの頃の俺が顕現す……如法(にょほう)に。やはり大拙の考えではない──これは我が精神より自生(じせい)している。「日本的霊性」を己が心身にぶち込み、出力されたはこの文章。AIなんかクソ喰らえ、I(アイ)あるのみのこの言葉。「日本的霊性」はそこかしこに漂(ただよ)うていて、我ただ吸い込んだり吐き出したりしただけの事なり。の理(ことわり)。愚禿憲宏拝。