2026年1月1日木曜日

令和八年“平生業成”

明けましておめでとうございます
──Nirvana achieved in this life(without waiting for death)



 平生業成



 昨日記したテキストもそうだが、毎年最後の原稿は、いつも切羽詰まって書いている。これで最後だ、これで最後だ、と思いながら書いている。これが最後の一年だ。これが最後の睡眠だ。これが最後のセックスだ。これが最後の食事だ。これが最後の人生だ。



 最後とかいちいち意図して、残り回数とかいちいち意識して、何だか貧乏くさい気もするが、誰よりも大切に丁重に扱う様になる──一年を、睡眠を、セックスを、食事を、人生を──いつも、いくつも、いつまでも、いくらでもあるなんて、そう思っていたら無意識で記憶すらされない。



 今度こそ最後の一年だ。最後なんだから味わい深く、心ゆくまで味わい尽くそうぞ。今だ。最後とは、最たる今なのだ。



 2026、Are you burning?


2025年12月31日水曜日

令和七年“還来穢国”完了

真っ正面から向き合うべきだ、と馬鹿真面目に対峙してきた。大切なものや大切なことに、力の限り向き合い続けた。それが次第に横並びに、いざ語らんと眺め見入った。グラム・歌謡・メタル・野郎で肩並べ、一致団結/一心同体となった様に。親・兄弟・友達・恋人と見つめ合うより、見つめる先の方を見据えた様に。大切なもの・大切なことを理解するよりも、どう理解しているのかを理解しようと考えた。それが理解だと思った、また理解されることが理解するものだと気付いた。音楽はそう考えるし、彼女はこう思うのだと気付いた。そして、そこに行き着いた──客観たる主観に。そうして、ここに還って来た──穢れた国に。



 今年も益々有難う、令和七年“還来穢国”完了。


2025年12月27日土曜日

ゲーテ・ニーチェ・マンライン

ここに時代の悪魔は棲(す)む。ここにまた対峙する良心がある。そしてそのまま己が乞い願う血肉となる(心魂とは血肉の一部である)。



 ゲーテ・ニーチェ・マンライン──これがドイツ文学の背骨である──私は提唱する。

 鏡花・谷崎・三島ライン──これが日本文学の肉體(にくたい)であろう──金の鉱脈だろうグラムだろう。自然主義文学だの白樺派だの、若さ故の無知で手をつけた事もあるが、あれは貧困みたいな栄養失調症の言語の欠乏の思想の無口だ(が、しかし、今のシケた世俗にゃ、ぴたりかもしれぬ)。我が国には既に全てがあるのだ。我が国には何も必要なものなどないのだ……ただ理(ことわり)だけが余計だった:理論、理屈、理想、理性。すなわち、理だけが足りなかった。或いは己が本能の、バルザック・ボードレール・バタイユライン……これはこれでまたやる機会があるやもしれぬから、今回は割愛す。


ファウストの書斎に忍び込むメフィストの図(その当時、机上にある“電話”など存在するはずないんだが、時空を歪ませるの好きなんでね ※そりゃもう悪魔なので)

 ゲーテ・ニーチェ・マンライン──これが我が国の背骨となる──私は提唱する。

 背骨が必要だ。世間からは背の曲がった奴だ、と云われてきた。ないし骨の無い奴だ、と思われてきた。巳年(みどし)野郎の、優柔と不断。蛇みたく長い、優柔および不断。しかし間違えてくれるな、蛇に背骨だ骨だ無いだのと。人間の比にならぬ位、実は数え切れぬ程の背骨があってこそ、蛇なのだと。骨あるが故、ぐにゃぐにゃなのだと、堂々巡りで、堂々と優柔不断なのだと。君は優柔不断の容赦無い無慈悲を知っていて?即断即決など絞め殺してやる!


だんだん横柄な態度を取るメフィストの図(片方の足は馬の脚です ※そりゃもう悪魔なので)

 その為にも背骨が必要だ。もっともっと、しなやかが、したたかで、背骨が要(い)るというのだ。

 36歳が何故に24歳か?60歳を0歳とする習(なら)わしで、蛇が自らの尾を呑む──まさにウロボロす──為で、いずれ還暦しちゃうので、丸くならないと行けないので、もっと曲がるのに、背骨が要るというのだ。

 であるから背骨が必要だ。もっともっと、しなやかが、したたかで、背骨が要るというのだ──私は提唱する。

「ウワバミというものは、そのえじきをかまずに、まるごと、ペロリとのみこむ。すると、もう動けなくなって、半年のあいだ、ねむっているが、そのあいだに、のみこんだけものが、腹(はら)のなかでこなれるのである」
-作者不詳「ほんとうにあった話」より


悪魔メフィストは赤い衣装に身を包んでいたというので、俺が一張羅の“赤いナポレオン(とシルクハット)”をば

 この曲自体は、ビートルズのポール師匠の“イエスタデイ”よろしく夢の中で作った。例えば己がバンド、アンフィニッシュド・バラッズの“あの夏の扉を”というナンバーも夢に見た曲をそのまま形にしたものだったが、手前の場合、理屈こねて作るよりも感覚で作ったものの方がよく褒められる。天啓に打たれた様な無意識が一番強い、そこに理由も何も無い訳で。

 今回は我がデモの中の“夢の中で作ったフォルダ”から、確か夢に見た時は(90年代末〜2000年代初頭頃の)V系バンドで歌う俺が演っていたこのナンバーを選び、ゲーテ・ニーチェ・マンラインその“ゲーテ編”の曲にする事とした……そうして、いざ録り終えたものを聴いてみたらば、V系シンガーの俺は何処へやら、歌い方、ふざけ方、ギターの弾き方、ベースの当て方、その他ミックスやマスタリングの仕方等々、様々な要因によってだろうが、そこに居たのは単なる“グラム歌謡メタル野郎”であった。またしても俺は、俺以外には成れなかった。メフィストとの契約によってファウストは別人の様に若返ったが、若返らせた方のメフィストは何時迄もメフィストでしかなかった様に。


「メフィストフェレスの赫い嘘」
作詞・作曲:Nori MBBM

ラファエル、横にガブリエル
ミハエルと主が見栄張る
穢い綺麗なあの面を
瞠る程に目は大きくなるの

赤は明らかな所以の
誰の眼にも真っ紅な嘘と
赫灼たる光に惹かれ
天に召します贋物の

太陽/天国/神に対応する
闇/夜/月よりも
人間共の醜悪な群れ

人神の破滅のメロディー
メフィストフェレスの赫い嘘
誇大妄想の人間達と
人権?何それ?
人形劇だよ

好きな所から来りて
好きな処へと遣って行く
真っ直ぐ歩むべし人間が
迷い込んだはその入口

或いはこの出口
同じ一つの口
詐欺師による手口
深淵ウロボロす

見るよ・見られているよ
ヴァルプルギスの夜の夢
踊り明かす魑魅魍魎と
此処?何処?
ブロッケンが頂上

盲いらせ!!
第三の女
──“憂い”という名の灰の女
灰神楽
──はい、終わりました
よちよち墓穴へ
己が賭けに勝つ!!

ツィター!!
真っ二つに割られた
とて掻き鳴らすギター
洋琴で夜毎
心満たすな乱せ!!

人身の破壊のメドレー
メフィストフェレスの赫い嘘
古代文明の亡霊共と
心霊?神霊?
人形劇を

見るな・見られてやるな
ヴァルプルギスの夜の夢
踊り狂う初恋の人
エヴァ?リーリト?
ブロッケンが超常



10年前、10万かけて新宿のアトリエで作った自慢のお洋服なんです(by Nori MBBM)

 詩を書くに当たり、10年近く前に完読して分かった気になっていた「ファウスト」をもう一度全て読み返してみたのだが、これがいざ始めてみるとあれやこれや延々終わらぬで、大変しんどい作業であった。若い頃に手こずった下巻・第二部は大分読める様になっていたが、今回も悪夢に魘(うな)されるが如く、赤い悪魔(メフィスト)の熱に当てられてしまった──実際、めちゃくちゃに体調を崩した。

 手始めに以前読んだ中公文庫版の手塚富雄訳を再び完読し、昔つまみ喰い的に読んだ雅(みやび)で格調高い(しかし大正二年の発表当時は“卑俗”と非難されたという)森鴎外訳も今回初めて完読し、その他、気になる場面(特にグレートヒェンの登場する箇所)を中心に、岩波版・相良訳、新潮版・高橋義孝訳、集英社版・池内訳とその訳文を比較検討したのだが、もう曲どころぢゃなくなっちまったよ……やはり私は、手塚訳のグレートヒェンが一番好きだ、健気で優しくて、信心深くて不器用で、そして可哀想で、可愛らしいでは済まされぬ人間としての可愛らしさに溢れている。第一部の最後“牢獄”のグレートヒェンは、訳者によって訳文のニュアンスが大分異なるが、手塚訳の彼女の“気の触れ方”が目も当てられぬくらい気の毒で、しかし庇護欲(ひごよく)をそそられる可愛げもあって、何という感情を手前に抱(いだ)かせてくれたんだねゲーテ君!って感じ。


12月27日は親父の誕生日なんです(by Nori MBBMもとい憲宏)

 60年近く掛けて大作「ファウスト」を書き継(つ)いだゲーテの、節々に見られる積年の哀惜(あいせき)も見逃せぬ。特にファウストの部屋の場面に多いのだが、大切なものたちが経年劣化してゆく、次第に朽ちて滅びゆく、誰にも共有されぬこの侘(わび)しさ、取り返しの付かぬその切なさ──本棚の書物たち、壁に掛けたコートや着物、そして自分自身の肉体に精神。そこをやっぱり、二十代の頃の手前は全然読めていなかった。いや読んだ記憶はちゃんとあったが、確たる実感を伴っていなかった。今の俺をして、こりゃもう“老いたな、父上(by ギレン・ザビ)”って感じ。


父(12/27生)・母(12/28生)の誕プレに酒やCDレコードなど贈る(名盤“ケルン・コンサート”は父も当然持っていたそうで、若かりし頃にアパートでLPを擦り切れるほど聴いたのを思い出す、とお返事を頂いた)

 そうだ大人になってからガンダムを観ると、敵側のジオンの軍人とか連邦側の汚い大人達の言動も、それはそれで理解できる様になると云うが、この度「ファウスト」を読み返してみて、(グレートヒェンとは異なる意味で)メフィストがまあ健気で可愛くて、ギリシャの魔女や化け物達に馴染めないの分かるよドイツのブロッケン山に帰りたくなるの分かるよファウストとか天使達に苛立ちまくるの分かるよ分かるよ分かるよ……だから今回メフィスト視点で歌詞を認(したた)めたのであるが、すっかり世俗の悪に染まっちまったのかね俺ら、いや“汚れつちまつた悲しみに(by 中原中也)”って感じ。


1808年、ナポレオンはゲーテと面会した際に「此処に人有り(Voila un homme)」と云ったそうだが、メフィストもファウストに劇中で同様の事を述べていなかったかしらん?ほら、こんな一張羅の“赤いナポレオン(とシルクハット)”を身にまとって!!

 さて、次回はゲーテ・ニーチェ・マンラインその“ニーチェ編”であります。その間にやらねばならぬ別件も沢山あるから、いつ発表できるか分からぬが(来年中に必ず演ってやるぞ、とは思っている)、久し振りに「ツァラトゥストラ」も一から読み返さねばならぬ。目下、鋭意制作中(デモ録音済み)であるが、これも夢の中でニーチェと共に“見た”自信作なのである。はい、深淵/深淵。それに飛び立つ鳩(はと)?そして我がディオニュソス!!


巳年生まれの息子が、巳年生まれの父親の誕生日に、愛を込めてはウロボロす(いつかの母親の誕生日にはイエモンのカバーを演ったグラム歌謡メタル野郎)


2025年11月25日火曜日

愛は感覚で在り、論理に非ず(腹を割って、頭を飛ばして)

三島・生誕100年の年に、そして没後55年の日に(大音響でワーグナーを聴き、大画面で能舞台を観る)

地頭の良い人ならば、即ち小さい頃から感覚に冴え、それ自覚的ないし論理的に統(す)べ、大人達の意図や意向を汲み、人生の地平遥かを見通せる者ならば──生涯コスモス的に──カオス的なものを退(しりぞ)けてゆけば良いものを、三島由紀夫は自作品や実生活でそれをしなかったから、むしろよりカオスへと向かいながら、コスモスを目指したから、私は彼を真(まこと)に愛しているのである。実に三島を愛しているならば、華麗なる修飾(しゅうしょく)が理路整然と展開される偏執的な文体を愛するだけでなし、彼の生涯の破綻(頽廃)、境涯の色盲(耽美)をこそ愛さねばならぬ……結局はこの一貫性の無さが彼を忌(い)み嫌う人々の、その最大の根拠にも成り得る訳だが。

静かにせい
静聴せい
話を聞け
男一匹が命を懸けて諸君に訴えてるんだぞ
いいか
いいか

 彼の悲愴な雄誥(おたけ)びが、脳裏に焼き付いて離れぬ。

これで俺の自衛隊に対する夢は無くなったんだ
それではここで俺は天皇陛下万歳を叫ぶ

 これが解せぬなら哀れだ。三島の哀れだ。日本の哀れだ。野次馬達の哀れだ。私は三島の思想にさして共感しない(“七生報國:しちしょうほうこく”の鉢巻をする気概はない)が、彼の最期の訴え、真っ直ぐで、産まれたばかりの様な、後先考えられぬ切実さには、甚だ共鳴する者である。

 馬鹿ぢゃねえの、市ヶ谷駐屯地の決起とか決起にもなってねえ、不発に終わった・出来の悪い・あんなやっすいドラマに感動とか、あんた騙されやすい人だね、楯の会とかカルトぢゃねえか等々、野暮な異論・反論、茶化し・冷やかしは様々にあるだろうが、つまりその世間の冷笑派の意見は“下らない茶番劇だと思い、それに真面目にショックを受けている馬鹿な大人が多いのにあきれた(月刊誌・諸君!99年12月号より)”という高名なる哲学者・浅田彰御大(おんたい)の一言に集約されると思うが、ならばそのスタンスでこちらも売られた喧嘩を買おうか。


愛は感覚で在ると(腹を割って)

 例えば三島由紀夫の割腹は、最上のスノッブであると。不可解な死、解(げ)せる何某かの人智があると。君にはそれが無かった、というだけの話で。「構造と力(1983)」なぞ破り捨ててしまえ、むしろこちらの方が“構造と力”だ、と解せぬ生を無に帰してしまえ。


愛は論理に非ずと(頭を飛ばして)

 市ヶ谷駐屯地での最期の演説の文字起こしとか、その際にバルコニーから撒かれた檄(げき)の全文の写しとか、ググればすぐに出てくるし、2、30分あれば事の経緯まで含め全て読めるから、読んだ事がないなら読んでみてよ。十年以上振りにまた読んで、いまだ解せぬ処はあるものの、彼の最期に感極まっちまったよ。

 私はあれを彼の純然たる有りの侭の姿と好意的に受け取るし、或いは悪意を以て否定的に取ったとしても(前述の通り)最上のスノッブとして機能する事を疑わず、それ故に三島由紀夫を愛すのである。この愛は宗教的なものではなく、ましてや右翼/左翼だ政治的なものでもなく、純粋に耽美・頽廃主義者としての愛である……そりゃ余計に君等に危(あや)ういか?


プレゼントをくださった友達とは残念ながら予定が合わず、独り「憂国」鑑賞会を催した(天吊り型プロジェクターと爆音ウーハーシステムのある処で)

 映画「憂国」、先ほど初めて鑑賞いたしました。良かったです、というよりも終生(しゅうせい)忘れ得ぬ一本となるだろう、という感想であります。原作小説は云う迄もなく三島短篇で随一(ずいいち)の、いや人によったら三島全作、文学全体で一番の傑作であろうが、あの壮絶な文体の前ではこの映像は、成る程と感心するよな、そんな壮絶でありました……ただそこはさすが三島、後(のち)のATG的前衛表現の嚆矢(こうし)となったらしい、時代を突き抜けるよな奇怪なる映像が、時世(じせい)の覆う一面の黒々しい帳幕(ちょうばく)を突き破るよな幾筋もの光が、エロスが、グロテスクが、ナンセンスがありました。“今も全く古びない”と云えば嘘になる──生まれてこの方この形容が腑に落ちたこと一度も無いのだ──が、撮られて然るべき作品であった。三島文学が常に周りから浮いてしまうのと同じ道理で、つまり三島がそこにちゃんと居る事によって、確実に浮世離れした、時を超えた映画となっていた。であるから撮られて然るべき、残されて然るべき作品であった。國(くに)を憂いた男/女がスクリーン一面に、舐め合い/吸い合い、汗を流し/涙を流し、真黒な血しぶきを上げ/真白な腸がにゅるにゅる今日(こんにち)は、そりゃ三島の奥さんも封印したくなる白黒無声映画/こりゃ世にもおぞましいモノクロサイレントフィルム、で御座居ました。


今年五月の誕生日プレゼント、ゲーテやらニーチェやら源信やら親鸞やらで頭一杯の我、中々その封を開ける事が出来なかった

 にしてもだよ?この映画の4年後に、この映像の中の芝居で演った事を本当に、現実でやるんだから!至誠。




2025年10月15日水曜日

平成に出逢い続ける男


平成とは、何だったろう──私が0歳だった時、或いは数え年で1歳だった頃、平成は元年で、若(も)しくは平成一年であった訳で、幼少期の無鉄砲は、そのまま平成一桁の無鉄砲であったし、十代の分かり合えぬ暗黒は、平成十年代の分かり合えぬ暗黒に違いなかったし、二十代の自分のあの未熟さに至っては、平成二十年代のあの未だ熟さぬ時分(じぶん)とも重なり、三十代でやっとこさ大人となりて、そうして一つの時代はあっけなく終わった──平成とは、青春であったのだ。

 青春。若さ、初々しさ、爽やかさ、甘酸っぱさ、恥ずかしさ、苛立たしさ、焦(じ)れったさ。そんなの昭和にあるはずがない、だってまだ生まれていない。こんなの令和にあるはずもない、だってもう生きていない。平成の放課後。



 おっさんの感傷かよ、平成の頃に、昭和の奴ので見飽きた癖して、若い奴にも繰り返すのかよ。そんなんぢゃねえって、いや同じ穴の狢(むじな)だって、“平成の放課後”とか云って、この曲を聴いてくれって。そんなんぢゃねえって、ガリ勉にも不良にもなるなって、友達も恋人も勝手にしろって、人の青春をなめんなって。徹底的に独りだ、圧倒的に惨(みじ)めだ、グローバル化だ笑わせんな、ローカル化を笑うな。見える横より見えぬ縦、ローカルを深く突き抜けたらば、圧倒的にグローバルだ、徹底的に独りの方が。日常、普遍、非日常、不変。さっさと繋がっちまえ世界中、一人ぢゃ役に立たねえ約束を、一人ぐらいは守り続けるから、これはそんな曲であります──ニーチェの誕生日に、青二才の実らぬ片想いの様な、青春とか思春期の全て、平成に出逢った全てのものをここに閉じ込めておく。前回の楽曲「六界廻り」は拙著“六界記紀”と、今回「平成の放課後」は“平成総体”とそれぞれ対応しており、その部分も是非お楽しみ頂けたらと思う、良くも悪くも意味のある事しかできぬ人間だから(無意味でさえも、無意味である、という意味が、必須条件で)。

 訳わかんねえ事を書いてやがる。何故って、いつか理解される日がきっとやってきますから。やっと時代が追いついた。いつもそうだ、やっと時代に追いついた。平成は昭和っぽかった。昭和は大正っぽかったし、令和は平成っぽいんだろ。だってほら、大正は明治っぽかったし明治は江戸っぽかったし江戸は安土桃山……もういいよ。平(たい)らかに成る。どこか、どのへんが?平らかには成らぬ。どうやら後者の略だった様だ、平成は!一人でに独り直覚(ちょっかく)す。今、その放課後にて。



 平成元年生まれ、昭和と平成の節目、切れ目。これほど分かりやすい時はない年に産まれたのかもしれぬが、つまり元年以外の数年、十数年、数十年生まれの人からすれば丁度の区切りに生まれたのかもしれぬが、当人にしてみれば誰よりも中途半端なタイミングである。昭和の人々には新しく、平成の人々には古いのである。

 自分なんてものは中途半端な存在だ。自分がこうなる迄の自身を知っていて中途半端なのだ。逆に他人というものは常に完全無欠でしかない。誰かの卑(いや)しさも厭(いや)らしさも知る由(よし)がない。誰かにとって令和七年現在は令和の七年の現在でしかない。ならば“平成の放課後”なんてほざくのは中途半端がさせること。生活というのは中途半端がすること。生きる事は推移、経緯、経過、過程、可変、変遷、変容、漸(ようや)く、暫(しばら)く、暫定、措置、発展、途上、途中……中途半端でしかない。ならば“死んでやる”なんてほざくのは完全無欠がさせること。人生というのは完全無欠がすること。そういう意味で、全然死ねない、俄然(がぜん)死なない、死ぬ訳がない。という訳で、平成の放課後。



 ウィンドウズ95で世間が賑(にぎ)わっていた頃、父の買ったマッキントッシュに入っていた音ゲーやらCD-ROMのPCゲーム──「鉄マン」とか「中央線201系」ってソフト、ふと思い出した──に夢中となったのも、次の年に小学校へと入学し、第三使徒・サキエルが夜の第三新東京市で繰り広げる理不尽な暴力と破壊──初号機の左腕をバキリとへし折り、頭をむんずと掴んだまま光線状の槍で右眼を貫いたエロ・グロ・ナンセンス──に興奮したのも、更にその次の年に小学2年生へと上がり、“エキセントリック少年ボウイのテーマ”を毎日ノリノリで──♪同棲相手は~と口ずさんでいたら、母親に唐突にキレられてびっくりした──その意味も分からずに熱唱していたのも、全ては平成の新たなる政治・経済に対するファック、しかしそれは同時に平成の新たなる科学・技術や社会・文化によるファックいやハック、“平成とか俺ら知らねえよ”というその態度、その態度こそ紛(まご)う事なき平成、しかしそれは紛(まぎ)らわしに紛らわしただけの平成、今はっきりと聴き取れる、このリフ、アルペジオ、9カポ、単音、クリーントーン、夢のあと、平成のあと、やっと形になった、曲となった。


 頭ん中で延々ループするスピッツやジュディマリのポップでキャッチーなシングル曲と、午前中の微妙な時間に再放送されるヤニ茶けた昭和アニメに内容の無い事だけがその内容である芸能ワイドショーと、校舎の窓から見える工場地帯の煙突に濁(にご)ってしまって灰色っぽい空の人工的な青と白と太陽の鈍(にぶ)い光と……声しか知らぬ区役所のいつもの女性が街の拡声器から、光化学スモッグ注意報をアナウンスしたあの日。




2025年10月14日火曜日

鋼喰ふ虫(破)

蓼(たで)食う虫も好き好き、とはよく言ったもの。蓼なんてあんな辛(かれ)えもん、ねえ?しかし自ら好き好んで鋼鉄(メタル)聴く奴も、余程の好き者でございますよ!てめえHなM(エッチなマゾ)ですか?いえ、HM(ヘヴィメタる)でございます!谷崎の“蓼喰ふ虫”よろしく、これ“鋼(かう)喰ふ虫”と呼んでみせ。へい、そりゃ名案でさあ。


二年ぶり開催のラウパ、今年は今までと毛色が違う様だ(昨日行ってきました)

 今回のラウドパーク25の全ラインナップが出揃った際の公式の告知ツイートには、“(往年の正統派メタルバンド皆無の若手・中堅メタルコア祭りで)知らねえのばっか”とか“(客もバンドも)老兵はただ去り行くのみ”とか“ラウドネスやアンセムやアウトレイジがオマケ程度に出ていた時から成長を感じるラインナップ”といった辛辣でありながら核心を突く様な愛憎入り混じる引用・リプライがいくつも見られたが、ラウドネスやアンセムやアウトレイジといったジャパメタ勢こそまず一番に心の底から目の当たりにしたい新兵でも老兵でもないこの一介のジャパニーズ・メタルコマンド(36)は、ケリー・キング(スレイヤー)とブレット・フォー・マイ・ヴァレンタイン(BFMV)以外のバンドを一切知らぬまま、若手のメタルの一曲たりとも聴かぬままに、この鋼鉄の交響楽の秋の祭典へと参戦したのである。汝、メタルを信ずるというその唯(ただ)一つの真実によって、神より悪魔より讃(たた)えられんことを……思考停止だ依怙贔屓(えこひいき)だ誰にどう云われようが一向構わぬ、崇高なる“HM”の二(ふた)文字の前に我ただ平伏したり殉教あるのみ、いま帰依(きえ)いたします──前回のメタル随筆“鋼鉄綺譚”その続編、ここに開陳(かいちん)す。


ケリー・キングの新譜は良いぞ!BFMVは懐かしいぞ(初期のシングルのMVとか“俺達の平成”って感じ)!

 つうか上に挙げたケリー・キングのソロないしケリー・キング・バンドのファースト聴いた?昨年5月に出た「フロム・ヘル・アイ・ライズ(2024)」ってアルバムなんだけど、聴いてみ飛ぶぞ(長州力)?正直に言うとスレイヤー解散後のギタリストのソロバンドってんで、あれ以上ハードコアで無駄を削ぎ落とした完璧なスラッシュメタルは聴けんやろってそんな期待せずにCDレコード再生したらば、1曲目“ディアブロ”からの2曲目“ホエア・アイ・レイン”で「勝った!」って拳上げましたわ、何にってスレイヤーにだ、勝ったんだよ(てか結局スレイヤーも再結成したみたいだから共演とかすんのかな?)。アルバム冒頭、凶悪なギターリフをザクザクと刻みまくる重苦しいインストからの、超絶疾走スラッシュメタル雪崩込みは卑怯だろ……マヂでスレイヤーより好きかもしれねえ、ケリー・キング(昨年還暦を迎え、現在61歳ってマヂ?40年以上スラッシュ一辺倒って、ラモーンズよりも偉いよ速いよ重いよアンタ!)。あと呪術(じゅじゅつ)的に怪しく盛り上げる7曲目“テンション”からの8曲目“エヴリシング・アイ・ヘイト・アバウト・ユー”ね、スレイヤーの「レイン・イン・ブラッド」も真っ青な1分21秒しかない超高速スラッシュナンバー……そっからまた息つく暇も無いまま9曲目“トキシック”、10曲目“トゥー・フィスツ”、11曲目“レイジ”と、最後13曲目のタイトルトラックまで疾風怒濤のスラッシュメタル無間地獄でございました。俺らすぐ2周目いっちゃったもんね、このアルバム(もう頭おかしくなっちゃいそう!)。“スレイヤーより好きかも”とかほざいたけど、ケリー・キングのバンド、ドラムはスレイヤーのポール・ボスタフで、ボーカル(“デス・エンジェル”のマーク・オゼグエダ)ともう一人のギター(“マシーン・ヘッド”のフィル・デンメル)は80年代ベイエリア・スラッシュ出身で、米国産スラッシュメタル・オールスターズなんか、そりゃとんでもねえはずだ。


開場9時30分より30分ほど早く着いたが、もう長蛇の列ができていた(みなメタルに飢えてんだね)

 いやはやメタル名盤ディスクレビューぢゃねえんだ、ラウドパークについて書いてんだ。という訳で今回、ケリー・キングとBFMV以外なんも予習せずにラウドパークへと参戦したのは、ケリー・キングだけでも生で観られたらOKであったからで、まあBFMVも高校か大学時代に「伊藤政則のROCK CITY(TVK・テレビ神奈川)」で出逢ってから聴いているバンドなので、今回のデビューアルバムリリース20周年スペシャル・セット──アルバム完全再現+α──も結構楽しみにしていた(個人的には1st「ポイズン(2005)」のエモ・スクリーモ的メタルコアな世界観より、一層スラッシュに切り込んだメタルナンバーを次々叩き付けてくる2nd「スクリーム・エイム・ファイア(2008)」が好きだった)けれども、やはり本丸はケリー・キングのスラッシュメタルそれが聴きたくて!良くない言い方になるが、それ以外は知らぬバンドの知らぬ曲でもメタルはメタル、ただヘヴィメタルその一点だけで楽しませてくれたら、もうそれだけで充分だったのだ。


こちとら大枚はたいてゴールドチケットぢゃ(5月末に購入済)

 ケリー・キングという男の好きな処は沢山ある──俺も大好きな“ジューダス”やら“ヴェノム”やらをお気にのバンドに挙げていること、尺が長過ぎる曲にはさして興味が無いこと(スレイヤーの名盤3rd「レイン・イン・ブラッド(1986)」は全10曲で30分を切っている!)、また若かりし頃の長髪の維持が困難となったので潔くスキンとなったこと、それと引き換えに充分すぎるほどヘヴィでメタルな貫禄を得たこと(酒と肉ばっかで野菜嫌いのケリー・キングにインタビュアーが「野菜も食べた方が良いですよ?」と問うと「ポテトは喰うぜ、ポテトは野菜だろ?」という界隈では伝説となっている名言を残している!)等々……それとケリーも三男坊の末っ子らしく、だから俺も将来、ケリーの様な風貌になるやもしれぬ、とだけ予告しておく。いや、だから、ラウドパーク25の話だったね。



場内に掲示されていた今回のタイテとマップの図

 午前3時半に目が覚めてしまったので、そっから長い一日の準備を始めた。会場までの道中はBFMVの1st「ポイズン」をまるっと爆音で聴いたのだが、家を出てすぐに1曲目“イントロ”を再生し、たまアリ前に着いた時にラスト13曲目“ジ・エンド”がフェードアウトで終わった時、天才かと思いましたワ。こりゃ幸先が良い。会場までの道すがら、メタルT、メタルパーカー、メタルキャップ、メタルリュック、メタルソックスのメタラー達と何度も遭遇し、テスタメント、エクソダス、スレイヤー、スリップノット、インペリテリ、ガンズ、A7X、ホーンテッド、クリプトプシー、スレイヤー、オジー、BFMV、メイデン、兀突骨(ごつとつこつ)、メガデス、ケリーキング、スレイヤー……とスレイヤー多いな、さすがラウパと嬉しくなった。お揃いメタルコーデのカップルやら夫婦やらの男女もちらほら。メタルって世間でこんな人気ありましたっけ?と変な錯覚に陥ってみたり。会場入りしてクロークに荷物でも預けようかとさまよい歩いていると、オープニングアクトがもうステージ上で演奏を始めようとしているではないか。


終演後、ファントム・エクスカリバーのボーカルの方が記念撮影に応じていた

 前座“ファントム・エクスカリバー”、その古き良き伝統の日本語パワーメタルは、(今までならともかく)今回のラウパでは異色の存在であった。「今日はメタルの祭りなんだぞ」と皆がそう改めて認識するに充分なオープニングアクトでした。今回のラウパ25は2ステージ制で、バンドの出演時間が一応全て被らぬ様にタイテが組まれていて、ステージ2つで交互にライヴが行われる為、今度はダッシュでアルティメットステージ(メイン)の方へ……そして今までオープニングアクトを見ていた処がエクストリームステージ(サブ)なのであったと知る。

 1バンド目“ビュー・フロム・ザ・ソユーズ”、「20代でラウドパーク出られたの誇りだと思ってるんで」とボーカルのMCがあったが、確かにみな若い。そして冒頭の曲で、ボーカルの掛け声によって本日一発目のサークルモッシュ発生!自分は今回、基本的に最前から2、3列目で観戦していたのでモッシュに激突!モッシュに参加している人達は年齢、性別、人種、体型もバラバラであったが、みなニッコニコで奇声あげながら全力ダッシュ!マヂ巨大扇風機(人力)で何か風が涼しい!かと思えば、最前に居たツーブロで眼鏡の青年が、眼鏡を外して左手にそれ握りしめたまま、そして右手は柵(さく)を掴んだまま、ぐにゃんぐにゃん首もげそうになるほどヘドバンを始める!楽しくなってきたぞ!最後の曲が終わり、再びダッシュでエクストリームステージへ。

 2バンド目“ウルマ・サウンド・ジャンクション”、クリーンのアルペジオ、スラップベース、ツーバスを踏まないドラム、それに伸びやかなボーカルの歌に、一時(いっとき)癒されてしまう。今回の出演バンド陣の轟音に次ぐ轟音の中で、最も音の空間を生かしていたのではないか。「メタルとかメタルコアとか関係ねえ、俺達プログレやってんだよ!」とベースボーカルの方の熱いMCあり。演奏終了後に「写真撮ろうぜ」と呼び掛けられ、会場の皆で一緒に記念撮影。そして再度、轟音のアルティメットステージへ。

 3バンド目“セイブル・ヒルズ”、正統派メロディックメタルと現代的メタルコアの、そのどちらの要素も感じられる音楽性に痺れた。「俺が初めてフェスに行ったのは中学の頃、ラウドパーク2010でした。そっから15年、あの頃の中学生の俺に言ってやりたい、お前はラウドパークのメインステージに立ってるぞ!」「今日はラウドパークの歴史を変えに来た。日本のセイブル・ヒルズです!」とボーカルの子からMCがなされ、その後の曲で“回れ!”のアジテーション、本日二発目のサークルモッシュ発生!よっしゃ今度はやったるわ、他の奴に突き飛ばされ、他の奴を突き飛ばし、“イ゛ャ゛ア゛オ゛ォ゛!!”とか何か奇声あげながらニッコニコ!そうだ楽しすぎるから、そしてこの楽しさを邪魔すんなよってんで、みな奇声あげながらニッコニコ!そうなっちまう、ならざるを得ぬ!そして、今回のラウパのハイライトの一つ(もう一つは後ほどケリー・キングの時に!)、何と僧侶(そうりょ)のお出ましだ。「今日は新曲を持ってきた、皆に一番に聴いて欲しくて。そしてその新曲の中で、不動明王の真言(しんごん)を唱えているお坊さんも来てます!」とボーカルから紹介後、袈裟(けさ)をまとった僧侶がステージ中央までやって来てそのまま鎮座し、激しい演奏が始まるや否や、客もメンバーも全力でヘドバン、その中にあって彼(か)の坊さんは静かに真言を唱えるのみ、全く微動だにしない。俺は現代の仏教を見た。それと曲によってバックモニターに英語詞が表示されてたんだけど、途中デスボで“ナ゛ァ゛ア゛ア゛ム゛!!”とシャウトする箇所で、モニターに“南無──NAMU──”って出たの最高だったな。俺は現代の仏教を見た。


ライヴ後、ボーカルの子が長髪なびかせながら颯爽と降りてきてハイタッチ&セトリ配布(ナ゛ァ゛ア゛ア゛ム゛!!)

 4バンド目“クリスタル・レイク”、5バンド目以降は海外勢なので日本勢ラストのバンド、またハードコアに振り切ったメタルコアでした(奇怪な踊りをするファンとおぼしき少年少女達を尻目に、腕を組んでじっくりと聴き入ってしまった)。ボーカルだけ外国の方だったが、スキンの頭いっぱいにタトゥーが広がり、MCではオアシスのギャラガー兄弟ばりに“ファック”“ファッキン”“ファック”“ファッキン”を連呼していた。客の方も大体はメロイックサインを掲げてバンドにリアクションしていたが、メンバーに対して(愛の)中指を突き立てている者も居た。ここ治安悪いな?最後はボーカルの「Let's fuckin' photo!!」の呼び掛けで会場全員記念撮影パシャリ。再びメインのアルティメットステージへ向かおうとするが、ここら辺から人口密度が高まってきて、ノロノロ牛歩で移動も大変になってきた。

 5バンド目“オービット・カルチャー”、ギターボーカルの人のギターの構え方、マイクに対する身体や顔の角度に、ジェームズ・ヘットフィールドを見た(ギターもエクスプローラーシェイプだし)。そう思った人はあの場に53人くらい居たのではなかろうか。ただズンズンズクズクと地の底で刻まれるが如き鈍重なギターリフとか野獣の咆哮の様なグロウルは、デスメタルのそれでしかなかったですが。ここでも勿論、サークルモッシュ発生でしたが、ギタボの方の身振り手振りの促しにより、ウォール・オブ・デスまで発生!2列目辺りに居た自分のすぐ後ろにスクエアの無人空間が出来上がり、左右両サイドから全力で駆けてくる人垣と人垣が正面衝突!無論、ニッコニコ。メタルって一体何なんだ。



初来日だったオービット・カルチャーへ、客席の方から彼等の母国スウェーデンの国旗を掲げて愛を叫ぶメタラーが居て、メンバーもすかさずバンドロゴ入りの日章旗を掲げて応じるという一幕も(愛あふれるメタルコミュニケーションにただ涙)

 6バンド目“ヘヴン・シャル・バーン”、いぶし銀、そんな言葉がまず第一に浮かんだ。ガキっぽいアジテーションで過剰に煽る事もなく、実直に、徐々に、そして確実に殺(や)りに来る感じ。赤シャツ&黒スキニーのボーカルの方の歌い方、身振り手振りもストイックなもので、騎士ないし武士の様な佇まい。正直ここまでで4時間近くメタル浴びっぱなしな訳だが、客としても悟りの境地というかゾーンに入っている感覚があった。轟音環境がデフォルトとなり、分厚いディストーションギターと会場の床を振動さす地割れの様なベースと執拗に繰り返されるツーバス連打の音の壁の中で、ぐっすりと眠りにつけそうだ(割とマヂで)……そんな事を想いながら観ていたら、ラストのナンバーだけ急に何だか毛色が違う、妙にキャッチーな曲で、リードギターのメロディーがしばらく頭から離れなかった。

 7バンド目“ザ・ゴースト・インサイド”、これまたメタルコアでしかない暴れる為の音楽って感じだったが、時折メタルというよりハードコアパンクなナンバーもあり、なおかつどの歌も聴きやすくメロが良いので、悟りを開いたメタルの民(たみ)達がまた覚醒してしまった様だ。サークルモッシュは勿論、この日一番モッシュダイブが起きていたのではないか。“事故(アクシデント)でドラムが足を失った”という様な事をボーカルがMCしていたけど、「On drums, a one leg! A one leg!」と言い放った後に手数バシバシ高速BPMのメタルコアナンバー演るのは卑怯やろ。超カッコ良かった。



次のバンドへのステージ移動の際、隣を歩く男女も──男「カッコ良すぎん?」女「うん」と──上気(じょうき)した顔でライヴの感想を語り合っていた

 8バンド目“ザ・ホーンテッド”、今回知らなかったバンドの中で一番グッと来たね。これが聴きたかったんだよ、メタルコアぢゃねえんだよ(言っちゃった)、もっとスラッシュを聴かせろよ、と独り滾(たぎ)っちまいました。ザクザクと刻みまくるバッキングに、ピロピロライトハンドのギターソロ、演奏だけでなし音作りも俺好みで、演る曲演る曲いちいちカッコ良かった。あとスキンで巨漢のボーカルの方、絶対面白くて良い人だろ。曲終わる度に日本語で“アリガトー!!”ってがなるの可愛かった(と言ったら怒られるかもしれぬが)。

 9バンド目“ケリー・キング”、別格でしたね、マヂでラスボスの貫禄。米国産スラッシュメタル・オールスターズはやっぱ凄えかった。“何クソ日本人だって演ってやらあ”という気概(きがい)はいつだって持っているが、例えばM60(機関銃)とかB-52(爆撃機)とかダッジ・バイパー(トラックのV10エンジン積んだイカれたアメ車)とかにメリケンの本気を見た時、“ほおん、やるぢゃねえか(とんでもねえなクソ!)”という──あの敗北とはまた違う畏怖(いふ)の様な──マゾヒスティックなリスペクトに近いものをケリー・キングに感じた。音楽でも文学でも、それ以前の手前の趣味ならミリタリー関連でも車でも、アメリカ至上主義に被(かぶ)れた事は一度もない──フランスやドイツは何度もある──が、そんな個人的な好き嫌いなどお構い無しに、問答無用でこちらを“刺し”に来る頭のおかしい奴等が、彼(か)の国には一定数存在する。音楽ではやはり、それは爆音のストゥージズに不協和音のニルヴァーナであり、己が原体験としては筋骨隆々・堅城鉄壁(けんじょうてっぺき)たるメタリカに他の追随を一切許さぬ超音速のスレイヤーなのであった。そのスレイヤーの、ケリー・キング率いる米国最強のバンドである。SEが終わって演奏が始まった瞬間の、ギターリフ一発でもうケリー・キング!しかもあくまでギタリストだから一言も喋らぬ、ただ刻むべくリフを刻み、ライヴが終わったら一切声も発せずにステージから去りゆく、必殺仕事人、スラッシュ仕事人。そして、今回のラウパのハイライトにして個人的大事件、オジー追悼としてサバス最初期の名曲“ウィックド・ワールド(惡魔の世界)”を演ってくれたこと。ケリー・キングが演奏するサバス、トニー・アイオミのリフ、最高でした(しかもちゃんとスレイヤーっぽさもある、ケリー・キングが弾けばそりゃ当然か)。メタラー達の予想通りスレイヤーも演ってくれました、“レイニング・ブラッド”!歓声凄すぎたな、みんなケリー好き過ぎやろ。




ケリーがライヴ後に数枚ピック投げてくれたんだけど、その内2枚が俺のカメラ持つ左腕にヒットしたんよ……すかさず隣のメタラー達に奪われましたが(写真撮ってる場合ぢゃなかったな、とメタル猛省)

 10バンド目“BFMV”、音源さながらにカッチリ決まった演奏、巧(うま)い、上手すぎる。マットのボーカルもあの頃と変わらず原キーで歌い上げるの凄い(所々つらそうにしてはいたが)。俺は“ティアーズ・ドント・フォール”のLet's Go!!!!!!を生で聴き、一緒にみなで全力で叫んだらもう、今回のラウドパークでのBFMV観戦の目的の大半は達成されたも同然なのであった。めちゃ2000年代初頭のあの頃の空気を感じられる大好きな“オール・ジーズ・シングス・アイ・ヘイト”も演ってくれたし(スバリストとしては、MVにインプレッサが一瞬写るのもポイント高い、しかもGD型)。何気に“アルバム完全再現”ってライヴ、人生初でした。それから2nd「スクリーム・エイム・ファイア」から“ウェイキング・ザ・デーモン”も演ってくれたね、始まった瞬間の周りの歓声も凄かった。


演奏後、ステージ移動する前にパシャリ撮ったもののボケボケな一枚(BFMVに感極まって前がよく見えなかった俺の視点みたいな)

 11バンド目“パークウェイ・ドライヴ”、オーストラリアのバンドらしく、ってのはヘッドライナーくらいはちょいと予習しておくかってんで、ちょうど数日前にアマプラでドキュメンタリー映画が公開されたので、それを前日に観たのである。試行錯誤しながらワールドツアーを回り、次々と大きな会場でライヴを成功させ、2000年代以降を代表する世界的なメタルコアバンドとなった、という内容だったが、ツアー中にトラックの車内で放屁したり、ステージ上に母親を招いたり、楽しそうにサーフィンしたり、イタズラ好きなわんぱくキッズって感じが、非常にオーストラリアでした(小学生みたいにランドセル背負った短パンのアンガス・ヤングが、客に向かってケツ丸出しするあの感じね)。今回のラウパではボーカルの方がめちゃ頑張ってほぼ日本語でMCをしていたが、その力強いカタコトの「オレハ……」って一人称を聞く度に、あとあの軍人みたくマッチョな肉体も相まって、私にゃほとんど“悟空”に見えましたわい(全然ドラゴンボール詳しくないけど)。



飲まず食わずで12時間近い長丁場、トリのパークウェイ・ドライヴでは最前から退避し、ゴールドチケットエリア後方から優雅に眺めた(嘘、ちゃんと暴れた)

 ケリー・キングのパイロ演出も盛り上がったが、やはり大トリともなると比じゃないくらいのパイロ祭り、また火花あり、それから花火もあり、ここ日本だよな?と一瞬目を疑いました。ボーカルの声に合わせ、リードギターのメロディーに合わせ、会場みなで大合唱、絵に描いた様な大円団、ラウパ25が遂に終わる!終わっちまう!そう思い始めたら寂しくて、気が付けば付近に発生していたサークルモッシュへと、ただただ無心で突っ込んで行ったのであった……







 ようがす、旦那。ラウドパークに参戦してきたってんで、この憲坊(のりぼう)めがBPM200位で一息に書かせて頂きました。ヘッドバンギン乱筆乱文、マヂ御免なすって。これぞザクザク速弾き、鋼喰ふ虫でい。