2021年12月31日金曜日

令和三年“気韻生動”完了

たとえば、中央のほうで、ある朝一人の男がペストの兆候を示し、そして病の錯乱状態のなかで戸外へとび出し、いきなり出会った一人の女にとびかかり、おれはペストにかかったとわめきながらその女を抱きしめた、というようなうわさが伝わっていた。
-ベルナール・リウー

 こと現在の日本でも、ある一人の男がコロナの兆候を示し、そして病の自己憐憫(じこれんびん)の中で戸外へと飛び出し、いきなり入った役所の職員に飛び掛かり、俺はコロナに罹(かか)ったと喚(わめ)きながら、警察に抱き抱(かか)えられて消えて行った、というような報道が二、三あった──

 歴史は繰り返す、何時の世も変わらないのだね、学びが無いよ、うむ、学(がく)の無さは時を超え、国境も越えてゆくのだね、人間というのは強いね、逞(たくま)しいね、だから大丈夫だよ、コロナなど忘れて、今に無かった事にされるから、何をそんなに皆して騒いで居たのよと……


 追い付く追い着く自ら偶像に、満たし溢れ返る己が表象に。身体をイメージが侵して、凌駕(りょうが)して行くのが分かる。しかし、身体という奴は何十世紀もそのままではないか?

 時代もあるのだよ、つまり技術もイメージの後押しをして呉(く)れる。ちょうど今、こう書いて居るみたいにさ。



 今年も益々有難う、令和三年“気韻生動”完了。


2021年12月12日日曜日

俺のストラトだけギブソンの味がする

先ほど終電で帰宅。緊急事態宣言も解除され、久しぶりのライヴ観戦でありました。自らをギブソンだと思い込んでいるフェンダー野郎、とは当ブログの己がプロフィールに記載した通りですが、今回はその生来(せいらい)のフェンダー気質を自覚されたい日記であります。


しんさんのお誘いで武道館までチャーのライヴを観に(with カズ兄)

 天秤や山羊や魚に影響された牡牛座、長子や一人っ子に感化された末っ子、AB型やO型に作用されたA型、インプレッサに意識が過剰なランサーのエボリューション、欧米列強に劣等意識なぞ皆無な雷電の潜水航法1万メートル、エアロだモトリーだガンズだナンボのもんぢゃいジギーの「クールキッズ」でこちとら“トゥーレイジートゥビーグッド・トゥーシリアストゥビーワイルド”等、まあ何とでも言えるがグラム歌謡メタル野郎、その実はフェンダー野郎であります(御免ねレスポール)。

 ギターに憧れを抱いていた頃は“太くてコシのあるサスティーンなティーンの粘り気湿り気ギブソン野郎に決まってらあ”と自ら決め付けて居たのですが──初めての恋人は横浜で出逢った黒いレスポールのコピーモデル──憧れだったギターを抱く程に“カラっと乾いた殺生な匕首(あいくち)マックのミスターバーニングビッグマックNori MBBMはフェンダー野郎に違えねえ”と相成りましたでござんす。


布袋さんのMCとギターで武道館に火がつきましたばーにん

 高校生の頃に布袋さんとのコラボで彼のストラトの洗礼を受けたのが私にとっての初チャーでありましたが、その後もYouTube等でキヨシローとか民生とかとゴキゲンにギター談義しながらセッションする動画等を漁りつつ、いいとものテレフォンショッキングに出演した際の動画では何故か人間椅子のメジャーファーストをタモさんにプレゼントするなど、彼の正史を知らぬまま野史(やし)ないし外伝ばかりに触れてきたので、この云わずもがな日本を代表するギターヒーローと対峙する事は一度も無かったのでした……今回は貴重な体験を文字通り有難う御座居ます、しんさん(も私のギターヒーロー)。


ファンクなリズムで刻まれ続けた三時間いま無性にストラト弾き倒したい

 民生との“ドシテラベナ(ヒゲかまやつ)”なアコギ弾き語りもその選曲から興奮しましたが、チャーによる生粋(きっすい)のフェンダーサウンドをお腹いっぱい耳一杯に喰らってしまったので、自らをギブソンだと思い込んでいるフェンダー野郎、フェンダーらしからぬがフェンダーにしか出せぬ音で、グラム歌謡メタルして演ろう、という想いをより強(つよ)うしました。

 「ストラトを弾く、徹底的にな……」
 ──何で急にカイシデンかってそりゃさっきの雷電からの観念連合からの紫電改からだろうよ

 「嘘みたいだろ、フェンダーなんだぜ、それで……」
 ──何で急にタッチの名場面かってそりゃ前々回のブログのあしたのジョーで味を占めたからだろうよ上杉達也かってそりゃチャーと誕生日が一緒の6/16であるからだろうよ




2021年11月25日木曜日

役者二種類どちら様

餓鬼篇より


そして私の心はふるえ上がった 私の羨むこの大勢の人間が
哀れ 口をあけた奈落の底へ一目散に走りこみ、
いわば、自分自身の血に酔って、とどのつまりは
死より苦痛を 虚無より地獄を選んでいるということに!
-シャルル・ボードレール

 この人生Aにおいては、役者Bである。また役者Aにとっては、人生Bとなる。

 今日は昼飯を我慢して、400円で思想を買った。思想?何処(どこ)に売っているの?あゝそうかいそうかい、ならば仮面で良いよ。

 冷静な君は、仮面を着けた君だ。仮面を着けた君は、無知な君だ。無知な君は、冷静で居られるはずも無いのに冷静で居られるから、周りを冷静で居られなくする。君は冷静の詐取(さしゅ)に成功する。仮面の一枚が成功させる。軽薄な人間だ。空洞の役者だ。君だけが知らないのに、知らない事のある種、冷酷さで、執着の無い冷淡によって、君は知りかけているもの──殆ど大半がこれに該当する──より尊敬されるのだ、人としての尊厳を今日も保つ事が出来るのだ。改めて君の公式を掲げよう!!冷静な君は、仮面を着けた君だ。仮面を着けた君は、無知な君だ。無知な君は……冷静な君だ。

 数年は色事(いろごと)を我慢して、年数の分だけ仮面を揃(そろ)えた。仮面?如何(どう)して生きて居られるの?あゝそうかいそうかい、ならば役者で良いよ。

 何時(いつ)まで経っても落ち着きがないのは、捥(も)ぎ立ての感動を今に見て欲しいから。淡々と分かった風でニベもない顔は、誰か様のモノだから。人間らしい、いや人間くさい。俗(ぞく)に塗(まみ)れた奴が語る希望ほど絶望に近く、ニヒルは今日も大人気と来た──鏡子(きょうこ)と四人の私。

 その六百二十頁(ページ)程ある小説の百九十四頁目に、仕事で手洗いし過ぎて乾いた小指の何時か切れた傷口が触れて、二つの小さな黄色い染みを付けた──これぞドキュメント、逆説的と云わんばかりの不道徳な教え──ツァラトゥストラの終盤にも、ひび割れた指の滲出液(しんしゅつえき)を付ける、という失態をやったんだよなあ、あゝここまで染み一つ付けず読み進めて来たのに、こんな終盤で、コメディぢゃないかよ、あれは何頁だったっけ?

 断眠(だんみん)に応じて夜な夜な、或いは遅すぎる朝に幾度となく開く表紙は老いた鴎(かもめ)の如く、綺麗に重ならず毛羽立(けばだ)ち、だらしなく外向きに羽搏(はばた)く癖を持っていた。決して彼方へ飛び立つ事無く、顔以外しか見つめられない身体の様な記憶に成る。それが消失した後も紙面を割(さ)いて、何時かの今日、文字通り腹を割った言葉に為(な)る──檄文(げきぶん)。

 その五十一年前の今日、誰からも選ばれなかった誰かの理不尽に於(お)いては、神の裁き、審理(しんり)の由(よし)を的確に述べる背信(はいしん)の書となる──憂国(ゆうこく)。


 即ち、この世には四種類の人間が居るらしい。二種類の役者と云っても良い。二種類の役者の行き違いが、大まかな四種類に別(わ)けられるらしいのだ。

 まず、役者として重宝されるのは空洞の人間である。軽薄の生き物と云っても良い。確固たる信念を持たない事の信念である。信念の空き地である。気軽に他を欺いて、自ら滅ぼす事をも厭(いと)わない。厳密には、その空き地として利用して呉(く)れたら良い。喜んで売国(ばいこく)する。喜んでコメントする、振りをしてコメントにコメントをさせる。主義主張する、振りをして主義主張しないものを主義主張に丸投げする。焦点の合わない眼を自由だと信じている。情念を含む生き方は鮮度に限りがあるから、なるたけカラッと生きて居たい。異性は適宜(てきぎ)、適当に仕入れようではないか。幸せとは詰まり、仕合わせに他ならないのであるから。

 そしてもう一方では、一杯に満たされた人間が居る。何に?自己同一性に。紋切り型と云っても良い。年齢はその全長で、経験がこの直径を表す金太郎飴。松田優作/ラモーンズ。おい説明しろ。へい/ほう、レッツゴー。臨機応変って旨いんか?やってみいひんか?なんぢゃこりゃあゝ!生きてりゃ色んなナメクジを見るハメになる。のっぺらぼうばっか。学校や職場で、便器の底の様な面(つら)を向けられる。打算された滑(ぬめ)り気に放尿したくなる。尿酸や陰惨かけてやれ!奴らの好きな渇きと共に匂い立て!大根役者で上等、スリーコードないし三分で充分。死んだら初めて成ってやる、やっと貴様に為(な)ってやる。貴様は不気味な洞窟(どうくつ)だ、面白半分に記念撮影してやろうか?まだ心霊現象の方が、ずっと可愛いよ。だって貴様に心霊も寄り付かない!!とことん血迷った奴に迷信も擦(す)り寄らない!!

俳優も精神のはたらきはもっている。しかしそれに伴う良心は、ほとんどもっていない。かれがつねに信ずるものは、人をして最も強く信じさせることに役立つもの──かれ自身を信じさせることに役立つものである。
 明日、その俳優は新しい信仰をもつだろう。そして明後日は、いっそう新しい信仰を。かれがすばやい感覚をもっていることは、民衆と同じだ。そして変わりやすい天気のような気分をもっていることも。
-ツァラトゥストラ

 この半生に何度か伝説を見た。不思議を知ってしまった。何度か死にかけた──行き違いのもう二種類。

 「礼儀正しく、日頃の行いを良くして居れば、きちんと天に召されるその訳は、天を脅(おびや)かすこともない凡夫(ぼんぷ)、実は地獄かもしれないよ」──そうして怒りに触れたのだ。再び改めて輪(まわ)り廻(めぐ)る六道(りくどう)また六界(ろっかい)。

 龍は厳(いか)めしい形相に大蛇の身体を伴い、その肉体は牛のものとも云われ、どちらにせよ真相はもう良いのだ、巳(み)年で牡牛座の己が境遇ならば、その真相は何も厳めしくは無いのだ。あゝ長広舌(ちょうこうぜつ)、長広舌。彼等ホントはお喋りだったのが、しんと黙りこくって、その言葉を奪ったのアタシ、役者の役割の役得なのアタクシ。あゝ長広舌、長広舌。輪り廻る六界。

 貴方は憧れ、憎しみ、不快、不可解、同じ様(さま)、どちら様?則ち天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄?神様と自然の脅威を免(まぬが)れたかった?祖先に前世の事まで知りたがった?──マイ・フィニッシュド・バラッズ、おしまいなんだ。


 具体的に示せと?類型的に提示せよと?

 類型①:一番熱いもの。発表する側(にわかに注意されるもの)。単に、うざがられる人間。単純な性格。③と直接的な関係を持ちたがらない。この役者Bは演技に関して素人である。

 類型②:一番冷たいもの。指摘する側(にわかに提案されるもの)。単に、うざがる人間。明快な人格。④と直接的な関係を持ちたがらない。この役者Aは人生に関して素人である。

 類型③:①と②が生んだもの。創造する側(あたかも批判的なもの)。敢えて、うざがる人間。複雑な性格。①と間接的な関係を望む。この役者Bは演劇的な人生を歩む。

 類型④:②と③が産んだもの。批評する側(あたかも創作的なもの)。敢えて、うざがられる人間。怪奇な人格。②と間接的な関係を望む。この役者Aは人情的な演技をする。

 類型①は類型①のままが究極の、人類の最適解であった。しかし類型②がこの世に存在する以上、類型③と成らざるを得ない。私はいま類型③と為り掛けて、これを執筆している。そして私の夢は、類型②がこそこそと隠したい、類型④と成る瞬間を見届ける事で、得意気な顔を取り戻した類型④と対峙しながら、無責任にも類型①と為る事である。

 つまり人生Aにおける、役者Bの完成であり、役者Aにとってもまた、人生Bの完成となる。全く面倒くさい物語である。

 面倒な物語を一々洗いざらい、音楽だとか文学にして恥ずかしい思いをする類型①。何よりも羞恥の回避を優先し、何も無いのに何か有る振りをする類型②。何でも有りとなった禁忌は、羞恥でも何でも無い類型③。恥と外聞を避けるより積極的に、最優先に着手して恥も外聞も無い類型④。

 人生Aにおいて、役者Aは務(つと)まらないから。また役者Bにとっても、人生Bは詰まらないから。全く芝居くさい話である。

 私に『「いき」の構造』を書かせるでない、読者であらせろ!!君に『陰翳礼讃』を読ませるでない、筆者であらせろ!!……どうして貴公から逃れられぬ、どうしても機構から逃げられぬ!!!!


 昭和と呼応(こおう)しない──令和に横たわる年齢──平成を象(かたど)った生年月日

 結局誰も来なかった──息詰まる海と夕焼。天上界から人間界へ。君の忠告に従い、その宣告された日に毒でも呷(あお)れば良かった。人間界から修羅界へ。云う通りにすれば、才能と共に縊(くび)られた。修羅界から畜生界へ。この期に及んで尚(なお)書き歌い続け、死ぬほど生きてみたかった。畜生界から餓鬼界へ。みな社会的な肩書きの為、或いは立派な前科を付ける為に。餓鬼界から地獄界へ。頑張れ仕事!!頑張れ犯罪!!あい左様(さよう)なら、私は私で一杯の馬鹿、お誂(あつら)え向きの最期を迎える。乱筆乱文にて、かしこ。

 誰かとは違う──腹も割らない──平静を装(よそお)った幕切れ

「言語は文明なのです。……言葉はどんなに嫌な言葉であっても、ひととひととを結び合わせることができます。……これに反して沈黙はひとを孤立させます。」
-ロドヴィコ・セテムブリーニ

 言語や言葉でなし──沈黙でもない独言(ひとりごち)──地獄界から天上界へ

 悪意は案外、続かない。便箋(びんせん)、数枚持てば良い方だ。善意の方が、恙無(つつがな)い。煙草、吸うまいとすれば良い子だ。

 空洞め軽薄め役者の奴等め、自分の言葉を持てよ話せよ、誰か持て囃(はや)すなよ。借り物の言葉は既に、貸した者が亡き後で、一見自立した風を装ってみせるが、死に装束(しにしょうぞく)、自立できない奴等が寄り添いあって、寄り掛かった依存の束(たば)、煙草、吸うまいとすれば良い子だ。

 日本人より良い加減な日本人であれ、世界より正確な世界となれ、中途半端が究極のお前であれ。周りがそうする事の、中へゆけ、逆なんぞ手緩(てぬる)い、深層を行け、心臓を抜け、心魂(しんこん)を貫け、良い匂いか、そう臭(にお)うか、赤子、吸うまいとすれば良い子だ。


 地獄界から天上界へ


2021年11月22日月曜日

ジョー・ヤブーキかNori MBBMか

「すべての無常なものは比喩(ひゆ)にほかならず」
-ゲーテ「ファウスト」より

すべての不滅なものは──一つの比喩にほかならぬ。あの詩人たち(訳注 もっぱらゲーテをさす)は嘘を言いすぎるのだ。
-ニーチェ「ツァラトゥストラ」より

 不滅のギョエテか、無常のニーチェか、どちらにするか決めた?

 身体を燃やすジョー・ヤブーキか、精神を燃やすNori MBBMか、どちらにするか決めた?

 黒く塗れ!!終末のタンゴを踊れ!!黒塗りをつんざいて、始まりのワルツを踊れ!!


TMGEを!!MBBMが!!

 カバーMV、三十七ラウンド目。ミッシェルは完璧なバンドなので、一番かけ離れた弾き語り独演形式でないと勝ち目は無いと考え、はて弾き語りなら何が良いか、“赤毛のケリー”はもう公式にMVあるしな、“ドロップ”は高円寺の高架下に居る何処ぞの兄ちゃんはおろか菅田将暉だって演っていたしな、誰もが演るよな安易なカバーは芸が無いしな、“世界の終わり”に至ってはもう公式にMVがある上にミッチーも民生も吉井さんも演っていたしな、誰もが演るよな安易な(以下略)にまつわるエトセトラ──PUFFYはデビュー25周年──がエンドレスでとつおいつ思案を巡らし、誰もまだ意外と弾き語ってなさそうな、それでいて昔から手前の心に巣食って離れない、アンフィニッシュドな煩悩を燃やして舞う灰のバラッズ、この丑年に牛泥棒されたカウボーイが踊るワルツ、その“アッシュ”と相成った訳でAre you burning?(灰だけに)──


伯国(ブラジル)における下町のナポレオン“カシャーサ51”を背に、まず一献(村田英雄)

 長年の持論になりますが、ミッシェルは“アルバム二枚毎で大まかな時代区分が出来る”バンドであります。即ち、初期(「カルトグラス」&「ハイタイム」)、中期(「チキンゾンビーズ」&「ギヤブルーズ」)、後期(「カサノバスネイク」&「ロデオタンデム」)、最後期(「サブリナヘヴン」&「ノーヘヴン」)で、バンド全体の雰囲気ないしメンバーの容姿や音の質感に詩の世界観等をそれぞれ分類できるという事です。

 チバユウスケとクハラカズユキの髪型の変遷からウエノコウジの輩(やから)度合の亢進(こうしん)にアベフトシが鬼化してゆく過程まで、この“アルバム二枚毎の区分け”で逐一解説する事だって可能ですし、BJC指数(←今オレが作った数値基準)がTMGE最後期に掛けて高まって行くのを詳細に辿る事だって出来るのです(逆にブランキーはミッシェル化していった印象で、互いに影響を及ぼし合っていたんだな、と推察されますイベントの打ち上げで一緒に焚き火してる動画を観て)。


 結局なにが言いてえかって、モッズスーツでキメた男四匹によるローファイな音宇宙が最高沸点に達してドロドロのぐっちゃぐちゃに煮詰められてtmgeからTMGEへと進化した中期こそ至高、もう完全にこのバンドどうかしてるなって瞬間が学生時代にカルチャーショック否むせかえるよカルチャー、枯れちゃう、そしてミッシェルで初めて買ったこの「ギヤブルーズ」というアルバムからの一曲“アッシュ”をカバーしたって訳さ(こう動機を話す迄のイントロが何時も長いからサブスクに不向きなMBBMはTMGEに愛と、いう、憎イエー)。

 5thアルバム「カサノバスネイク」以降の後期は“つきぬけた”(ゆらゆら帝国ぢゃないよ)って感じで、まるで此処じゃない何処かで“マキシマム・ロッキン・ブルーズ”が爆発してて、最後期の7th「サブリナヘヴン」と8th「ノーヘヴン」で“完全に出来上がってしまった”(ゆら帝解散に際しての坂本さんのメッセージはマヂ心にヒットする)という印象で、この頃はもう笑えないというか笑っちゃいけないシリアスな雰囲気がプンプン漂ってるんだ(←3104丁目)……自分はやっぱり初期の可愛げとかユーモアがまだまだ残っている3rd「チキンゾンビーズ」が一番お気にのアルバムだなんて唐突な自分語り a.k.a. ハイ!チャイナ!


バーのオーナーにパシャリ撮って貰いました

 今回のナンバーに相応しい場所としてラテンな雰囲気のあるバーはないか?という事で、明大前にある“カフェバー・LIVRE”さんを借りて、撮影させて頂いたのですが、オーナーの方がかつて高円寺在住かつ働いていたライヴハウスの先輩でもあり、撮影後も話が盛り上がってつい長居してしまいました。しかもお店にはチバさんも数回来店されたとのこと、予期せぬ偶然が度重なって私震えましたワよドグマッてねドグマッ!!


ウエニトベウエニ、ウエニウエニトベ


~~~~


燃えたよ

真っ白に、燃え尽きた

真っ白な灰に……


「し、試合終了です!終了ゴングと同時に精も根も尽き果てたかチャンピオン、ガックリと倒れ掛けましたが、これはダウンになりません!勝敗は遂に判定に持ち込まれました。それにしても三十七ラウンドの長丁場、終始凄まじい試合展開を見せたこの世界タイトルマッチ!日本のNori MBBM、よくやりました!最後の最後まで頑張り抜きました、バーニン屋ノリ!!さあ、判定はどう出ますか!?観衆は総立ち!!レフェリー、採点カードを集めております。」


おっちゃん、おっちゃんよ……

──おお!なんだノリ

ギターを、外してくれや

──おい来た


「集めた採点カードを係に渡しましたレフェリー。さあ、まもなく判定が出ます。」


◯◯は、いるかい?

──ここにいるわノリくん!

このギター貰ってくれ

あんたに貰ってほしいんだ……


「レフェリーが判定を読み上げます。勝敗はどちらか、緊張する一瞬!!」


“×××!!”


嗚呼……


「残念、残念です!!ぜ、善戦むなしく敗れました、日本のNori MBBM!!」


(ああっ……×××の顔を見ろ……)

(髪の毛も……あんなに……)


──惜しかったなノリ……
しかし、ようやったぜ
わしゃもう、もう何も言うこたぁねえ


よう、やった……

ノリ……!?


~~~~


 次回11月25日
 マイ・フィニッシュド・バラッズ最終話!!

 「役者二種類どちら様」

 男子、三日会わざれば刮目して見よ!!


 “完全な、始まりなき詩”──


2021年8月23日月曜日

ギョ・ギョ・ギョエテかNori MBBMか

悪い事は言わないから、預言者を信じるな。悪い事を言わないから、Nori MBBMは信じるな。

明日の雉(きじ)よりも
今日の雀(すずめ)を選んだのです
-イリミアーシュ

 オリンピックが終わり、お次はパラリンピックとな。この気持ちが一向にノらない訳は、日々の忍従とその鬱憤も然(さ)る事ながら、公式に掲げられた五輪精神より優先されるもの──IOCと政府の内情によって開催されるという独善や独断──が目に付くから。“自分は参加しないからって綺麗事を言うな”“五輪開催都市契約を反故(ほご)にする損失やリスクが~”などと云うのなら、このまま本末転倒した世界に甘んずる他ない。六歩前に、六歩後へ、するしかない……政治家が芸術を嗜(たしな)んでも芸術それをやれないのは、そのとき政治を辞める羽目になるからで、同様に俺はどこまでいっても政治に口出しするしか出来ないワ、何故ならあれ介入なんてしちまった日には芸術その音楽を辞めなければならないからだ!!



 野坂昭如という人でしたら、間髪入れずに爆裂拳(ばくれつけん)が炸裂でしょう。“火垂るの墓”や“おもちゃのチャチャチャ”など御多分に洩れず小学生の頃には既に存じておりましたが、それがあの大島渚監督やダウンタウンとどつき合ってたオッサンと一向に結び付かず、その他の音楽活動やタレント活動の詳細については大分後になってから知る事となりました。今にして思えば、美輪さんのインタビューとかラジオでもちょくちょくその名は見聞きしていた気がするけど、それ以外の三島由紀夫とか江戸川乱歩とか寺山修司とか中原淳一らにすっかり気を取られていました。


敬愛する蜂鳥あみ太さんも過去にライヴしていた渋谷の◯◯バーにて

 今回の演奏アレンジに関してですが、令和元年末に演った「骨まで愛して」のカバーと同様、いやスラップベース等も入れて更にパワーアップ、恣意的なノイズに塗(まみ)れながらカバーして演りました(お陰様でスラップベースか何なのかノイズで何が何だか分かりません)。オルタナロック直撃世代ですから。


ほなホヲナアのアコルヂオンで夜通し「サタンタンゴ」をば

 嗚呼、何とか世代とか下らぬから、やめよう。野坂昭如という人も今の世の中なら、すぐさま“老害”扱いされて終わりだろう。石原慎太郎とかと同じ括りで。だからこそ、カバーしたくなる。


用採をき書横右は記表幕字詞歌のVMの回今

 文化的に貧しくて窮屈なのは御免だ──“知らないことの中にだけ答えがある”と私より八歳上のグラムロッカーが歌っていた──これからも出来るだけ理解できぬ方向に進んで参りたい……あ、方向に因(ちな)んで、MVの歌詞字幕に関して一言。和心溢れる時は縦書きにしがちなんだけど、同じく大和魂迸(ほとばし)る右横書きまだやった事なかったなって、ただそれだけ(♪ひっびっがぁ←アジカン「夕暮れの紅」はあの「リライト」のシングルB面だ兄の御下がりで頂いたアイワXP-MP3という銀とブルーのCDプレーヤーで毎日アジカンだテナーだ塾の行き帰りとかに聴きまくっただ♪キラァアッァッアン、チュンチュンッチューン←テナー「KILLER TUNE」)。


鞭にも色んな種類のムチがあって様々な仕打ちがある

 文化的な貧しさ、償いて無知の知の仕打ち、鞭打ちペチペチ、尊厳は精神にあって肉にはない為の笞(むち)打ち、肉に加える苦痛が魂を体から精神へと追い返し、精神を再び支配者の位置に着かせる為の笞刑(ちけい)及び拉致。

 ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか、ニ・ニ・ニーチェかサルトルか、シェ・シェ・シェイクスピアか西鶴か、ギョ・ギョ・ギョエテかNori MBBMか──ギョエテはゲーテでシルレルはシラーだよ!!また理解できぬ文学や訳の分からぬ音楽の下で会いましょう。

 ッマグド

 マクドじゃお前ミスターバーニングビッグマック即ちMBBMぢゃねえか、嗚呼そうだ手前がMBBMぢゃねえか。右横書きでもMBBM、左横書きでもMBBM、上から読んでも下から読んでもMBBM、MBBM!!正真正銘、正々堂々、ずっとずっとずうっとMBBMぢゃねえか。

 ドグマッ


2021年7月26日月曜日

アフターマス、水の上を歩くこと出来ます?

もしきみが裁判に行くなら、しっかりした市民が見つけられる機会がある良い地区へ行ったほうがいい。
-マヌエル・ガルシア・オケリー・デイビス

 悪い人達のせいで、人が人を裁く事の違和も感じなくなったが、やはり馬鹿にむかつくので、良き人が善き裁きをしておくれ。

 罪人が甘く見られる世界で、善人が苦しめられる処で、良きは善きと識(し)っても、悪しきは悪しきでしかないと認めてくれ。

 悪魔に付け込まれ、それより強くなるは不可能だと思われる程に騙され、良きが善きと呼べる位に覆(くつがえ)され、オセロがオセロの黒に塗り潰され……



 今回は云わずと知れた世界一有名なロックンロールバンドのカバーですが、私にはずっと難しいバンドでした──何が難しいって職人だから、ブルースの。ビートルズやフーが提示するよな革新性は鼻に付いてしゃらくせえし、キンクスの人懐こいポップセンスも要らん。気付いたら始まっていて、気付いたら終わっている。職人芸、或いは人生。

 バンド名が“転がる石”というのは言い当て妙な話、その巌(いわお)の厳(いか)めしさや貫禄が貴様に感じられるかという咄(はなし)、似たような漢字の感じみたいな的な自然な噺(はなし)。わたし、正直ふらっと寄ってみては“こんなもんか”とただ帰ってしまっていました、つまり、ロック史に残るストーンズ黄金期の名盤を聴いても“ふうん”としか思わなかったし、酷評されている幾つかのアルバムを聴けば“全然格好良いぢゃねえか”とも思ったし、世間の評価ほど絶賛も批判も出来ないバンドでありました、自然すぎて、違和感なさすぎて……偉大とはこの事でしょうか。自分なりの評価が十代より確立されていたビートルズはとうの昔にカバーMVしていたけど、ストーンズの方は今日の今迄かかってしまいました。あッ(←村八分)、今日はSirミックのお誕生日です、78歳おめでとうございます。4,000人斬り(←誰が数えたんだよ村田英雄)。今じゃストーンズ好きですよ、人生くらいには。



 今回の楽曲ですけど、元々はストーンズが1966年に出したシングルで、アルバムだとUS盤の「アフターマス」に収録されております。あッ(←村八分2回目)、“ストーンズのUK盤/US盤どっちを選ぶか”問題についてですが、私は勿論UK盤一択です(US盤はジャケットデザインや選曲順に誠実さを感じられぬので)。それからご承知の通り、当カバーMVシリーズで洋楽を演る際は拙者による日本語訳詩が基本ですが、そこは世界一有名なバンドの代表曲の一つでしたから、既にキヨシローさんや吉井さんによる和訳がありましてですね、今回は原曲に近い“キヨシローver.”の日本語詞で演らせて頂きました(但し、キーはストーンズの原曲と同じです)。



 昨年は初めて緊急事態宣言が発令されて面喰らった瞬間もありましたが、今年はオリンピック中心に矛盾だらけで動く国の身勝手にぐだぐだと付き合わされる一年であります。“イモなドラマは見たくもねえ”、“黄色も白も赤も興味がねえ”という訳です。この黒い感情をイカした音の塊に、暑中見舞いとして皆様へお贈り致します(ブライアンに敬意を表して、シンセでシタールも弾いて演りましたワ)。



 粋なブログで野暮なこたぁ愚痴りたくないので話を戻します、貴方はストーンズのどのアルバムが好きですか?そこにこそ興味がある。圧倒的に力説されてみたい。え、ストーンズに興味ない?手前は何が好きなんだって?手前は“ストーンズによるビートルズの模倣”と嘲笑された「サタニック・マジェスティーズ(1967)」のヘンテコなサイケ感も好きだし、“ストーンズによるストーンズの模倣”と揶揄(やゆ)された「スティール・ホイールズ(89)」も結構好きだけど、一番のお気にはジャケ写でもう一目惚れしちまったUK盤の「アフターマス(66)」であります(今回カバーした“黒く塗れ”は上述した様にUS盤にしか入ってないですが)。音的には勿論ミック・テイラーが居た時期の大胆不敵で豊饒(ほうじょう)な演奏が心地良くてしっくりくるんだけど、「アフターマス」は最初から最後まで緊張感を保ったまま矢継ぎ早にストーンズの黒いリズム及びブルースを聴かせてくれるから最高です最強です。てか“アンダー・マイ・サム”とかいう神曲で全てキマりっしょ(ルースターズの高速カバーもね、ありゃ一発でトべますから)!!

 黄金期とされる中でも「ベガーズ・バンケット(68)」とか「スティッキー・フィンガーズ(71)」はソリッドで潔くて半端ぢゃない作品だと思うし、それ以外の時期でも曲単位なら一撃必殺みたいなカッコ良いナンバー沢山あるけど、正直ストーンズってアルバム聴いているとダレてきませんか?カバーばかりの初期とかは別として(現時点で最新の「ブルー&ロンサム(2016)」、最高なカバーアルバムだ、ジジイになるって最高にブルーズだ)。

 ヒロトが好きな「レット・イット・ブリード(1969)」も、志磨さんの好きな「山羊の頭のスープ(73)」も、サンハウス(←日本の)やルースターズや南浩二さんにも影響を与えたであろう「メインストリートのならず者(72)」も、“和製ドールズ”なルージュのタコさんが♪ベイベェ……と真似した「イッツ・オンリー・ロックン・ロール(74)」も、恍惚として昇天しそうになる瞬間はあるんだけど、間に合わせの様な曲がだらっと流れ始めると途端に萎えてしまう。しかしそんながまた、人生か。



 という訳でこれを読まれたストーンズフリークの方々、私に会ったらストーンズの真髄をとくと説いてやってくださいまし。ちなみに、キヨシローのRCで一番好きなアルバムは「ブルー(81)」です。初っ端グリッタービートで始まるからなのか何なのか分かりませんが、多分いちばん再生しております(次点に「プリーズ(80)」、これもキモチEのでよく聴きます)。ストーンズだけぢゃなしRCの話も誰かと……してみたい(←中川勝彦)、しかしする人がおらん(♪プリーズアンダスタンミィ)!!


 それではまたオリンピックが終わる頃に、きっと御目にかかりますアフターマス──


2021年7月25日日曜日

孤独な私に素敵なレターⅡ

そんな督促ばかりしないでよ私の自由に、焼き餅しないでよ私の自在に。

(私はなにやかやといろんな権力組織に脅かされている、当たり前のこと、愉快だと思えることをしてきたばっかりに)。
-チャールズ・ブコウスキー

 手紙は私に催促するけど、ラヴレターなら愛が無さ過ぎる。国も、私も。何せ食欲、次に睡眠欲、そして性欲、失せたのだ。眠りたいけど眠れない、なら睡眠薬、手に入らんなら風邪薬、用法の倍だけ飲む。督促状だって、イエー。

 以下、「裸のランチ」を読む感じで、お願いしますよ。日々、無意味な、意味ですよ。君、結構な、地獄ですよ。



 好き、嫌い、好き、嫌い、好き、嫌い、好き……嫌い。もう一輪頂いても宜しいか?

 真夏の夜は暑い、全身を扇風機の“強”で冷ます、風邪、外が暑いより身体が熱い、もう冷まさなくとも寒気がす、布団、実際上は外の暑さより身体が熱すぎるが、体感上ぶるぶる震えて丁度良し、汗だくで寝る。

 天国、地獄、天国、地獄、天国、地獄、天国……地獄。もう一輪頂いても宜しいか?

 衣食住の崖っぷち、ちょいと一つ押されたら落ちて舞う、真っ赤な花園、ぐつぐつ泡立つ、仕事に呼ばれたら生き延ばしで地獄、このまま横たわって居られたら意識朦朧夢の島、ここでは民謡か民族音楽みたいなのが唄われており、がらがら声でも裏っ返った声でも大丈夫、後半ディストーション掛かるのは聞いてないよ、効いてないよ、現代的なバンド演奏になるなんて聴いてないよ、利いてないよ、まあ何とかへろへろ声で歌い切ってみせます。

 好き、嫌い、好き、嫌い、好き、嫌い、好き……ここで止めても宜しいか?

 明後日の方向にクリアしたってサッカーボールはサッカーゴールを目指す定め──「そこの裸の君、ボール取って呉れ給え」、イエス・キリストと印字された手拭いの腰巻き、馬鹿は残酷、不謹慎に真っ向勝負だ、さあさあ眠りたいんだ、慢性の何某か、(キーーーーーー)、子守の唄い手を4、50人集めるんだ、CD2枚組で良いよ、私は今夜眠れるだろうか、眠れなかったら眠れなかったで沢山の子守唄を覚えられるんだ、あゝ弱った、年柄にもなく誰か甘えたい、いや甘えなど要らぬ、独りゆっくり気ままに休みたい。

 放尿の度いつも以上に、そわそわ/ぞくぞく、White Light/White Heat、身体の高熱が逃げ出す騒々しさに、ヴェルヴェッツのセカンドの騒々しさに、ルーも私も風邪を引いているのだ。しかも人生の、それはこんなにも長く罹患(りかん)するものぞ。


 ファイブイヤーーーーーズ




2021年5月17日月曜日

“This is for a Poison Apple.”

早すぎる知的理解は、人間が体験を味わう機会を奪ってしまうのである。さりとて、「知る」ことがなさすぎると、災害をどんどん拡大していって収拾がつかなくなってしまう。実際には、ある程度のことは知っていても、事が起こるとあわてふためき、それでも知っていたことがじわっと役立ってきて収まりがつくという形になることが多い。

 ユング心理学の偉い先生が、そう云っていたので。

 我等に体験が少な過ぎたし、災害が多過ぎた。神童には足りな過ぎたし、逆境には幸せ過ぎた。人生に丁度がなくて、過ぎたは過ぎたでもう去った。神曰く、人間はこん位が丁度ええて!!


~~~~~~


 5月17日、友達の誕生日──とっておきの今日はフォークでロックな貴方に、この曲を贈ります。



 前回に引き続き、5月生まれのお友達へのプレゼントとして、(或いはまた今迄の流れを考慮した上で)34本目のカバーMVに相応しいものとして、今回の楽曲を選びました。

 “17日に演るべきカバーはフォークだな”と思案を巡らせ、ボブ・ディランや高田渡、友部正人に吉田拓郎など聴き漁り、どういうアレンジにしようかと寝床で弾き語っていたんだけど、何気なく以前買った泉谷しげるのベスト盤を聴いていたら、この「白雪姫の毒リンゴ」が頭から離れなくなりまして──まだこの時点では誰の何をどうカバーしようか?という状態──早速インターネッツでコードを調べ、使うのはD、G、A7、D7の4つだけか、さあ歌詞見ながら一丁やりまっかと練習し始めたら、ボロボロ泣けて練習中断。


白雪姫(白目)とリンゴ(毒なし)とNori MBBM(黒目、毒あり)

 「あの映画マヂ泣いた」「今回の新曲ヤバすぎ号泣」とか云う巷の声というものに共感できた試しが無く、感動の落涙(らくるい)なんて三十余年で二回、その内の一回は8歳の時に友達3人と映画館で「帰ってきたドラえもん」を観た時でドラえもんへ全幅の信頼を寄せていた年頃だったから本来はノーカンにしたいけど、今回の泉谷さんのはマヂヤバ号泣すぎた。

 作詞・作曲者を見ると泉谷さん本人でなし“門谷憲二(かどやけんじ)”とあり、どっかで見たよな気がする、とググれば数え切れぬ程の歌謡曲を作詞されていて、己がカラオケの十八番「君は薔薇より美しい」のクレジットで見覚えがあったんだ、と合点でい(それから“高円寺純情商店街”のねじめ正一の中学の同級生だった)。

 そんな作詞家・門谷さんの知られざるナンバー、そのメロディーも然(さ)ることながら、詩の一節一節を歌い進めるごとにしみじみ沁みて、今の自分、令和三年の自身、そこに居て、この曲にて、白雪姫の毒リンゴから、ロックンロールの自殺者まで、つまりボウイもボランもディランに憧れフォークのちグラムとなり、泉谷も拓郎も加藤和彦によってグラムよりフォークとなる、俺の中で、夢の中で、井上陽水奥田民生「ありがとう」。

 以上“マジヤバな件 a.k.a 人生三度目の落涙”により、もうこの曲しかない!!と冒頭の他のカバー候補は全て吹き飛び、「白雪姫の毒リンゴ」な訳で御座候ふ。


紅いリンゴと赤いストラトちゃん
(桜木町のとある宿にて)

 我が演奏に関してですが、前回前々回前々々回より引き続き、潔くギター一本による弾き語り、俺の最近の流行り。ただ今回のエレキ弾き語り、いつもだとクリーントーン歪みMAXで演る処を中途半端に歪ませた音色で弾き語り致した。良く言えば“60年代後半のワイルドでいなたいアメリカンロックなサウンド”、悪く言えば“ギター初心者が買ったばかりのエレキ入門セットに付いてるメーカー不詳の小型アンプで「んゝ、もっと歪ませたいのに……」って弾いてる時のオーバードライヴしたチープな音”。クリーントーンかディストーションか、みたいな完全に振り切れた感じでなし、飾らずラフに演りたかったのだ。

 彼(か)の有名なレーシングゲーム「グランツーリスモ」で、とりあえずどの車も“フルチューン”して走り込んだ挙げ句、無改造かつセッティングもいじらないで市販車の“どノーマル”な走りに四苦八苦する楽しさを覚え、「スポーツマフラーに変えてみよ」「少し軽量化するか」「ROMチューンもしちゃお」という“ライトチューン”の範囲で市販車を自分好みに染めて行く喜びに浸っている、今ここに似た状態。

 サラダも肉もスープもデザートもぢゃなし、蕎麦かうどんにゴボウ天だけあれば満足である。いや、紅ショウガ天も最高だ。カツ丼とかもはや天国だから今は遠慮しておくし、「Kiss...いきなり天国」はアップビートのデビュー曲で柴山の菊さんが作詞してるし、豪勢なナポレオンジャケットを着たのはボナパルトだし、俺らNori MBBMで今回はデニムジャケットだし、でもこのジャケットはマヂでイカしてて岡山のTCBジーンズという処がヴィンテージのリーバイス507XX所謂“2nd”を現代にモディファイしたヤツのリニューアル前の旧モデルでシルエットもあゝセカンドと云えばニルヴァーナで好きなアルバムはアングラな1stかハードコアな3rdという事になるが今の時分の自分なら2nd「ネヴァーマインド」の骨太で大らかな演奏と自然体で素直なカートの叫びに全てを委ねたいしあのアルバムに収録されている“ドレイン・ユー”というゴキゲンなナンバーの一節がいま脳内でぐるぐると渦を巻いているのだ──

“You’ve taught me everything without a poison apple
君は毒リンゴ以外の全てを俺に教えてくれた”

~Nirvana「Drain You」より~

 前段の後半から句読点もなく読みづらくなって御免ね、つい毒リンゴ以外の全てを君に教えたくて。


上がこれなら下もこれぢゃあなデニムオンデニム
(宿のご主人に撮って頂いた)

 素直に戸惑い、ありのままが良い。優柔不断で、中途半端を愛している。いつも春になると、適当に業が深くなる。例年より梅雨が早い、珍しく手前の眼からも雨が降る。

5がつにはなをさかす、わたしににあいのなを

 今年の五月もそう、刻まれた。


2021年5月4日火曜日

“This is for All that Glitters.”

たましいの特徴は矛盾に満ちている。人間の心はそのなかに矛盾が存在するのを嫌うので、たましいの方は矛盾を抱えこむのだ。

 ユング心理学の偉い先生が、そう云っていたので。

 手前の心を守ってやれるのは最後、手前の魂だけ(志:こころざし、とも云う)。例えば心が壊れぬ様に最期、魂の壊れる事がある(銷魂:しょうこん、とも云う)。

 そんな魂にも譲れぬ処があって、心の方が誰か招いたとしても、魂は常に誰もお呼びでない。心は最大の私でも、魂は最小の私であって、誰一人入れるスペースが無い(独りとも云うし、宇宙とも云う)。

 生まれてこの方、心でなし、魂の話をしてきた。似ている様で全く、別の話なのである。


~~~~~~


 5月4日、友達の誕生日──とっておきの今日はグラムな貴方に、この曲を贈ります。



 これまで演ってきたミーの音楽と乖離していると思われるやもしれぬが、オリジナル・ラヴ大好きです。ピチカートやフリッパーズはさらりと聴いただけだけど(田島さんが一時期ピチカートに居たり、フリッパーズの二人がオリジナル・ラヴの追っかけだったのは知ってます)。

 田島さんの捻り出す詩曲やグルーヴは、日本の伝統文化に見られない日本語の音楽で、どうしても真似できないと痛感させられる反面、どうしても真似したいと思わせてくれる処が魅力的です。ブラックミュージックに憧れたビートルズやストーンズのメンバーらが、未だ聴いた事のない画期的なロック音楽を作り出したが如く。田島さんの描くメロディーや詩の中に、或いはインタビューやブログから垣間見える生い立ちに、“分かる”ところが沢山あるのだけど、それはソウルだのR&Bだのジャズだの民族音楽だのではなく、実はグラム好きなところが前述した魅力と一番関係しているのかもしれません。少なくとも私にとっては。


光る月を手に、とある宇宙空間にてドグマッ

 本題から逸れますが、かつてイエモンの吉井さんがバンドのデビューシングル“ロマンティスト・テイスト”を振り返る中で、「渋谷系が出てきたとき、俺こういうのなのになぁって思ってたの」とインタビュー(ブリッジ・97年4月号)で話されていた事がありました。

 つまり、70年代のグラムロックや昭和歌謡を愛好するが故、70年代から影響を受けた派手なファッションと音楽性でデビューしたものの、一方では90年代の渋谷系やブリットポップの台頭を目の当たりにして、そのカジュアルさやポップさこそが90年代の今の俺にはリアルであった、という事です(イエモンの4枚目のアルバム「スマイル」からは意図的にそうした、と仰っております)。吉井さんも好きだった“スウェード”とか“パルプ”って、普段着でカジュアルかつ力まずポップに90年代版グラムを演っていたものね(筆者はイエモンのケバケバしくドロドロしたグラムロックこそ至高だと思うけど)。

 ※“スウェードという退廃的でお耽美なバンドが、カジュアルかつ洒落たポップとは何事か?”とお思いの方、デビュー時のバーナードが在籍した僅かな(しかし最高の)数年でなし、彼が抜けてから現在まで長きに渡って活動している3rdアルバム「カミング・アップ」以降のスウェードを観てみてください(それでも充分に美しすぎてウッフンか)


ただ何気なく撮って、CGみたいな写真ドグマッ

 話を戻しますが、オリジナル・ラヴから滲(にじ)み出るグラム感って90年代版グラムのそれで、だから吉井さんはその“ネオグラムロック”とも云えるものに嫉妬したのだと思います。吉井さんも充分ミクスチャーで90年代のネオグラムなんだけど、渋谷系やブリットポップみたく冷め醒めしたものではなく、そこには70年代の熱血が流れていたという訳です(勿論オアシスにも熱血は流れているし、吉井さんにも冷め醒めしたものはありますが、それはここで主張したい事ではないので割愛)。

 更に事(こと)をややこしくしているのが、オリジナル・ラヴは90年代が終わってから、ドロドロした濃厚な70年代的グラムロックを演っているのです。代表曲“接吻”を聴いてハマった人からすれば、戸惑うこと必至な11枚目のアルバム「踊る太陽」は、間違いなく日本のグラムロック名盤の一つであります(大学時代に椿屋四重奏の中田さんのブログで「踊る太陽」の存在を知り、そのブログ記事のタイトルは確か“グラムロックに恋した”だったか、俺はそれで中田さんに恋した)。

 ここまで来ると前述した吉井さんと対照的に歩(ほ)を進める田島さんという感じで、二人の音楽的な根っこは逆さまにして一緒なのかもしれません。吉井さんはイエモンが解散してからジャズやオルタナ音楽の要素を多分に含んだ脱ロック的なナンバーをYOSHII LOVINSON名義で徐々にっでえ♪と展開して行きますし、田島さんも吉井さんも昭和41年生まれで同学年だし、都内の南は大田区と北は北区でそれぞれ育ち、それぞれ小学校時代に地方へ引っ越したところまで一緒だし、吉井さんのお母さんは一時期プラターズのメンバーと恋仲であったと言うし(←それは関係ねえ)。だから今度はオリジナル・ラヴの「踊る太陽」の方が渋谷系皆無にして、70年代グラムロックや昭和歌謡をガッツリぶちかましてくれる因果となる訳です。T.レックス好きな人は絶対に好きなアルバムよ☆

 その他、あからさまにグラムではないもののシングル「スターズ」とかディスコ調の「ディア・ベイビー」、デビュー前から演っていた「オレンジ・メカニック・スーサイド」なんて曲名からしてもうグラムの匂いがプンプン漂ってるんだ(←3104丁目のDANCE HALLに足を向けろ)。全身全霊を懸けて静かに熱くなるよな超絶名バラード「プライマル」など、最高にドラマティックかつロマンティックでお耽美この上ない(同名異曲だがイエモンのも民生さんのも“プライマル”と名の付くものは良い曲ばかり)。

 今回の「月の裏で会いましょう」も、クールでアーバンでソウルで……とか評されるナンバーなんだろうけど、はじめて聴いたその日からグラム野郎のハートを鷲掴み、歌詞に引っ張られている部分もあるけど、このメロディーを耳にしたら“月世界の白昼夢”まで宇宙旅行ブッ飛んぢゃう!!


黒のタートルネック a.k.a. とっくりセーターを着用
(一年半前のボウイ様のカバーと同様)

 ギター一本でシンプルに潔くカバーしよう、というのは前々回のカバーから引き続き、俺の最近の流行り。原曲はサックスとかキーボードも入った大所帯の演奏だし、ネット上の他の方々によるカバーはアコギ弾き語りが多かったので、それらとの差別化を図る為にもクリーントーンのエレキ一本のみでいざ勝負。

 また、原曲のリズムの跳ねを意識して、16ビートのコードストロークで弾き語りしたのを一旦は録ったのですが、原曲や他の方々のカバーの真似事の域から出られずに俺らしさが感じられなかったので、原曲の事は忘れて馴染みの8ビートストロークで弾き語るか、と開き直って再度レコーディングいたしました。俺が演ったら唯一無二のグラムナンバーになるだろう、くらいの自分勝手な演奏と歌でありますが、元の曲が大変良いので何をやってもキマるのです。それでは最後に、一年半越しの伏線回収を。



分子の大きなものから人間の脳に至る進化の鎖のどこかで、自意識がこっそりと入りこんできたのだ。脳がある種の非常に高い錯綜した回路を得たとき、常にそれは自動的に起こるのだと心理学者は断言する。その回路とやらが蛋白質(たんぱくしつ)であろうと白金であろうと知ったことか。
-マヌエル・ガルシア・オケリー・デイビス

 僕ら所詮は分子の延長、拡大した蛋白質か白金か何か。遣る瀬無い・事もない・様な気がしない・でもない、と単純が迷い続けて複雑化。右往左往するうち21世紀、SFの未来に追いついた。だのに未だ心は原始、野生的で未発達。脳との距離は開く開く、ノートが郷里を拓く拓く。もうそろそろまた、再び自意識が脳の回路を得ます様に。


2021年5月2日日曜日

自粛生活よろこびの詩(十二支詩・丑)



一)
なんでこんなにたのしいの
人の自由を奪われるコトが
よろこんではいけませんよ
私の自由も今に奪われるワ
どうもそれはうたがわしい
自粛生活よろこびのワケは

二)
時代が思考を停止させれば
裏の裏まで考え考え抜くぞ
時代が自粛を強制するなら
一人独りでに歩み行けるぞ
時代はつまり私以外の奴等
運命宿命十把一絡げの奴等

三)
自由自在を吹聴していた輩
自縄自縛と侮辱してきた輩
堂々一緒くたに成り下がり
公然と運命宿命ぶら下がり
こちとら今迄通りの見世物
のはずが今から急に見物客

四)
皆が自粛して内省するとき
私は誰にも邪魔されず遊ぶ
皆が考えなしに遊んだとき
私は遊ばず考えていたから
目立ちたがりの天の邪鬼か
天下分け目の手前の定めだ

五)
なんでこんなにたのしいの
本来放蕩息子に自粛はない
よろこんではいけませんよ
元来自粛人間に自粛もない
どうもそれはうたがわしい
あゝ自粛生活よろこびの詩

六)
ラ、ララララ、ラ、ラララ
ラ、ララララ、ラ、ラララ
ラララ、ラララ、ララララ
ラララ、ラララ、ララララ
ラララ、ラララ、ララララ
おゝ自粛生活よろこびの詩




2021年5月1日土曜日

32歳28歳:HAPPY T.REXTASY BIRTHDAY

閻魔さんの前に持っていって、これが私のたましいですと示せるもの。そのようなたましいを生きている間にいかにしてつくるか、これがソウル・メーキングである。

 ユング心理学の偉い先生が、そう云っていたので。

 自分、何の為に生きてんの?一つ言えるんは、死後の為に生きている、は間違いないな。え、死後まで生きるつもりなん?めっちゃがっつくやん自分。そうや。

 従って自分、人よりか長い長い旅となるやろ?怠けてやろ、下らん事しよ、死後を見据えて生活せな。え、本末転倒やん?今ちゃんとやらなあかんで。そうや。

 酸いも甘いもな、苦も楽もな、ぎょうさんや。閻魔さんにお土産や、ほれ、ゴロン(魂)。


~~~~~~


 どうも32歳です。カバーMVもこれで32本目です。ただ2020年より“ドントトラストオーバーサーティー”を適用して60歳で0歳となる予定ですので、実は28歳です。この前28歳やった気がするので、二回目の28歳です。



 ストーンズはドントトラストオーバーサーティーを二周以上しているのに、まだまだ元気いっぱいですね。マーク・ボランは29歳で黒い星となってしまいましたが、実は今も秋間さんと一緒に生きて居りますね。そんなこんなで今回のカバーMVを演った次第、またぞろ28歳になったのもボランちゃんの仕業です。

 黙っていても伝わる人には伝わると思いますが、念の為に書いておきます──昨年の誕生日はドールズの「ロンリー・プラネット・ボーイ」に「ルッキング・フォー・ア・キス」と「トラッシュ」をくっ付けてカバーMV致し、今回は「ベイビー・ゴナ・ビー・マイ・ドッグ」に「テレグラム・サム」と「ジープスター」をくっ付けてカバーMV致し候。こんな些細な事で誰か喜んでくれたら嬉しい哉。ライヴコンサートでボウイ様が「オーバー・ザ・レインボー」から「スターマン」を演ったり、ミッシェルが「アウト・ブルーズ」で“ブレイクオンスルーットゥジアザーサイ!!”とか「リボルバー・ジャンキーズ」で“ヘイ!ホー!レッツゴー!!”と叫んだり、俺はそういうサンプリングオマージュリスペクト大好きだから。



 19歳の時だったね、マルコシの大名曲「バラが好き」とすかんちの大名曲「恋のT.K.O.」を同じ日にYouTubeで目撃してハートに直撃、ロマンティック大爆発!!我に帰って破片を集めて日常に戻ったんだが、時既に遅し、明けても暮れても胸の爆発が繰り返し、毎日グラムに恋狂い、今の今迄それが続いて、これからもずっとそうなのだ。

 19歳の爆発事件後、今は無きレコファン大森店でマルコシのアルバム「ダイナミック・ワズ・ルビー(1991)」に「ミラバル(92)」、「リバンプド(93)」、「ルネッサンス(93)」等を次々と中古で購入していった(と同時にハマったすかんちの話はまた別の機会に)。その他、レコファン渋谷店で「乙姫鏡(90)」に「イン・カズミディティ(90)」、ディスクユニオンやアマゾンでベスト盤も含めた残りの音源を買って行った訳だけど、インディーズ時代の1st「プレジャー・センセーションズ(87)」だけがどうしても手に入らない。都内は勿論、神奈川、千葉、埼玉のレコ屋もくまなく回ったし、ユニオンの在庫検索サイトを毎日ポチポチとチェックしたけども、「プレジャ~」だけが一向に見つからない。

 それ以来、レコ屋に入ると必ず“マ行”を確認しなければ店から出られない体になってしまい、大抵は店に数枚あるマルコシのCDレコードをドキドキしながら一枚ずつ手に取って確認し、今日も無かった……という不遇の日々を送り続けていたのである。頭の中では「プレジャ~」のジャケ写──事前にインターネッツで確認済み──がぐるぐると渦を巻き、未だ聴いた事ない全8曲のギターリフと秋間さんの妖しいヴィブラートボイスに佐藤さんのピンクのギブソンEBベースが白い手袋でぐわんぐわんのぐにゃぐにゃにべしんべしんされて気が触れそうだった。



 幻のアルバム「プレジャ~」を探し続け、およそ三年が過ぎた頃。何かの用事で吉祥寺に来ていたので、どうせ今日も無いだろうが恒例のマ行でも見るか、とユニオンに何気なく寄り道、マ行はここだな、マルコシ何枚かある、うんうん……ん?プレ、プレ……プレジャー・センセーションズ!!嘘だろ──即、手に取る──在庫検索に無かったよな──裏ジャケや帯の文章まで舐める様に見る──何であるんだよ──何故かキレる──いくらだ──1,800円──レジは、レジはどこだ──CDレコードを両手でがっちり掴んで誰にも取られない様に左右を警戒しながらレジまで進む──生涯忘れられない一日となりました。人生で一番重みのある1,800円の買い物でした。今でもその「プレジャー・センセーションズ」、この高円寺の男の家にあって、手に取るたびニヤニヤしちまう。何千回、何万回と聴いたか、いつ聴いても最高だぜ!!

 マルコシで一番好きなアルバムは、一番最初に買って聴き込んだメジャー2nd「ダイナミック・ワズ・ルビー」なのですが──「プレジャ~」ぢゃないんかい!──思い入れがあるのはやはり「プレジャー・センセーションズ」です。何せ三年間、頭を離れる事が無かったですから、冗談抜きで。大学で経済学とか英文学とか商法やら刑法やら違憲判決の講義を受けながら、頭の片隅では妄想上の「プレジャ~」が鳴っておりました……いや、勉強も死ぬほど頑張りましたので、友達など居ませんでした。



 ところで令和三年の今、YouTubeで普通に「プレジャ~」が聴けるではありませんか(涙)。ファンの人か誰かが無断で全曲アップロードしておる(涙々)。しかしあの苦悶とも云える三年間を誰かに過ごして欲しくないから、無料で聴けるのはきっと良い事なのだ(涙腺崩壊)。平成は終わった(急に真顔)……廃盤になっているすかんちのアルバム達も、かつてプレミア価格つけられてドヤ顔でレコ屋に鎮座していたスライダーズの初期のアルバム達も、ウォッカ・コリンズも近田春夫もジョブライアスもクラウスノミもGGアリンも、みんなアマゾンミュージックでサクッと聴けるんだ(PC画面を両手で鷲掴み)、現代のサブスクの前で俺の存在意義とかプライドなんてレアレコード分だけの微々たるもんなんだ(口角泡飛ばし自棄のやん八)!!

 まるでワガママな子供のザレゴトみてえな文章になってしまったが、年に一度の誕生日に大好きなバンドの話題となれば致し方ねえ。次回からまた身を引き締めて、しっかりと理性を持って、粋な生き様を書き綴って参りたいと思います。

葦(あし)と藺(い)のなかに殺され横たわる、
騎士はうつくし。……
-オスカー・ワイルド

 お誕生日おめでとう俺──“HAPPY T.REXTASY BIRTHDAY 2021.5.1”。


 それではまた次回、月の裏で会いましょう。


2021年4月8日木曜日

水は我等の右左に墻となれり

令和三年度、入学式辞

2021/4/8(Thu) Nori MBBM

──誰(たれ)よりも十戒を守った君は
  誰よりも十戒を破った君だ。

  誰よりも民衆を愛した君は
  誰よりも民衆を軽蔑(けいべつ)した君だ。

  誰よりも理想に燃え上った君は
  誰よりも現実を知っていた君だ。

  君は僕等の東洋が生んだ
  草花の匂のする電気機関車だ。──

 神は困っていらっしゃる。土壁や石板に彫られた時から、聖書に記され、印刷を経て皆の手に渡る迄、何とか心を込めて来た。極東の島国の陰惨な六畳一間へ散らかる原稿用紙にだって、ふむふむ目を通すのにいらっしゃった事がある。ちゃんと存じ上げて居る。さて己がブログ随筆において、この通信回路に貴方は御出(おいで)なすったか、入力しては手応えを感じてみよう。

 ここは再び海である──

 先日観た映画について友人と批評を交わし、蕎麦屋でざる蕎麦の大盛りを頼み、帰りしな本屋で三文小説を勘定し、携帯に記した予定項目を一つ削除、世界中の今日中にあらゆる言語処理を済ませたら、眠れぬ夜に読み書き出来ぬもの、悩みに似た秘密裏のもの、意識にすら上昇(のぼ)らぬもの、謂わば“プレ・エログロ・ナンセンス”、文よりも字よりも前に探すもの、捜そう。

 海を割る杖、掲げる手──

 川端康成という人はあの大きな眼で以てして、初対面であろうと女子供であろうと野郎であろうと、じっとその舐めてしゃぶるが如く凝視したそうな。見詰める沈黙の間の、彼の願いは何でありましたかね?畢竟(ひっきょう)在処(ありか)を探していたのか、と思うのですが──そこで割られたのは海、はうみでも水のうみ、あの彼のみずうみ。

 右の羊に歌ってあげよう──

 例えば私が裸で闊歩し、この通信回路に行き交う人々と挨拶を交わし、「そこの裸の君、ボール取って呉れ給え」と言われてからに投げ返すと明後日の方へ飛んで行き、“投げ方ヘタすぎwww”と嘲笑されようがそれはhyper-text transfer protocolなworld wide webの事だから気にしないで、帰宅してから矢張り大切な処ぐらい隠すべきだった、何か良い腰巻きはないものか、と寝床の誰か眠る予定の枕にイエス──彼はみずうみの上を歩いて渡ったり、皆の代わり磔になって命を落としたり、今から四日前の四月四日には「復活した」などと宣(のたま)うし、今度五月辺り一緒に登山をすると約束した神の子である──キリストのカナ文字の入った手拭いが丁寧に畳まれていたのだけれど、これはよその人のだから勝手に着けるのよそうよそう、なんてまた御洒落な服より駄洒落た裸を装って、仏教いやいや無宗教、ゲッセマネで置いてけ堀は止(よ)して、縛られて何をされるか分かり切って、その通り神話にしないで、在処を探しにぶらんぶらん、何処かお股にぶらんぶらん……さ迷えるhttpにsを、私にパンツを、新型のコロナにマスクを、シッダールタにガウタマを、ストレイ・シープに詩を。

 歌ってくれたは左の山羊──

 幸い西は極東でもあると見え、出(い)づれというのは即ち超越る。狭義に捕まりそうな足取り、捉えて呉れ賜(たま)ふと邂逅(かいこう)す。原罪の認否にかかわらず、広義の責任を負うて居るのだ。罪はみなで分かち合おう、罰は世界と宇宙に委ねよう。何と無しの気配において、感動も無くまた確認す。退屈している慣習に、心を解いて安住す。中也の生活繰り返す、昼夜の生活ひっくり返る。

 羊も山羊も何も可愛いや──

 影の様で陰ならず、裏表の理解に苦しむばかし。露(あら)わになる光り、突き動かす力は過ち。襖(ふすま)の陰にやおら立ち上がり、障子の影に佇んで居る。興奮の在所、幸福の所在。毒されて健やかに、憑かれて康(やす)らかに。照らしつける天道様の頃、後は任せて眼を閉づるばかし。

 右も左も何も仏だ──

 これを読んでいる君、と文字の向こう側で目が合う。世界中の画面で反射の振りして、今日中に目と目で見つめ合っている。概念の匂い・温もり・色合い、通信回路に気配を感ずる。身体を亡くして想い出となり、語り継がれて身体を見つける。魂、概念の虫、嘗(かつ)て遺しし平成挽歌。こうして遂に、神の実態がぼんやり浮かぶ。

 水は彼等の右左に墻となれり──

 時代にのめり込むのは良いが、めり込むのは真っ平御免だ。あれこれ迷わなくとも、時代の方から注文を付けて呉れるよな。そうだ、あれこれ迷うな。働くな。学ぶな。通うな。触れるな。離れろ。消毒しろ。静かにしろ。笑うな。払うよ、税金は払うよ。何だ、戦争ぢゃないのか。いま昭和九十六年、ないし平成三十三年、そんな郷愁捨てちまえ、令和三年。流行りの何事無きを誇る事もせず、その事勿(ことなか)れ顔で格好を付ける代わり、傷を付けられて堪え難くなるほど面倒を抱え込み、どさくさ紛れに体制やAIから買わされたものをさも自ら嗜好(しこう)したと思い込む手前、そんな所有やめちまえ、令和三年。私が論理的に破綻しているとすれば、将来などという軽薄な経済社会を約束しない為に、神の姿がありありと浮かぶ。

 水は我等の右左に墻となれり──

 神は宗教の東西でなし、通信の回路にて往来す。私は未来の過去でなし、令和の三年より物申す。君に何も求めたりはしない、この祝辞を贈る。

「見よ、これらの善い者、正しい者を。かれらが最も憎むのはだれか。かれらの価値の表(ひょう)の板を砕く者である──破壊者、犯罪者である。──だが、それこそが創造する者なのだ。」
-ツァラトゥストラ

 モーセ以来、海が二つに分かれる事は無かった

 海の幾らか、とある一つは別れるであろう

 たとえば、この海から──


「秘密がないのは天国か地獄かの話で、人間の世界のことじゃないよ。」
──この式辞に秘密は無いので、さぞ貴方様も居心地が悪い事だろう、筆者自身の様にね、もっと遠くへ行こう、さあ一緒に逝こう

「秘密はまもられていると、あまくたのしいものだが、いったんもれると、おそろしい復讐の鬼になって荒れるよ。」
──筆者と読者以外に味方は居ないの、式辞と聴衆の間に望むのもそういう関係さ、契約は要らぬでオノロケよ、神に誓うって猥褻だ

「僕はもう有田老人の演舌の下書きはしてないんだよ。今日の祝辞なんか、前と調子がちがってたでしょう。」
──"Are you burning?"ドグマッ


2021年3月31日水曜日

ある令和にいる

象徴的な死と再生の過程の背後には、実際の死が存在しているのである。肉体的死を回避しつつ、象徴的死を成就することが必要で、ただただ「死」を避けていたのでは何事も成らないのである。

 ユング心理学の偉い先生が、そう云っていたので。

 則ち死ぬに二種類あり、本当に死ぬのと死なない死ぬのと(死なない死ぬの背中を押してやる、と本当に死ぬ)──死なない死ぬのが大好きで、本当に死ぬのが大嫌い!!

 昔から、死の匂いのするものに惹かれる。その心は、生死の境界に居るから。その心は、何か知って居そうだから──死なない死ぬのが大好きで、本当に死ぬのが大嫌い!!

 生まれ変わるのに、新しい生活や人生の節目に、色々と沢山の様々な、仮想の死が要るね──卒業おめでとう!!


~~~~~~


 一昨日、吉祥寺まで卒業式に参ったので、どこか清々しい。長きに渡る平成の呪縛が一つ、解かれた様である。そうして、ある令和にいる。



 今日、延期されていた志磨さんのデビュー10周年記念ライヴが、隣町である中野のサンプラザにて開催される。実り多き十年に相応しい、この曲をお祝いの言葉と代えさせて頂きます。

 それから父方の祖母の誕生日なので、大正生まれのばあちゃんにこの収穫を捧げます(ちなみに父方の祖父の誕生日には、毛皮ズのカバーを演りました)。



 ドレスコーズもカバーしたいナンバーが沢山あって、今まで何曲も宅録してきたけど、この曲を選んだ訳はタイトルも然(さ)る事ながら、“そして遅れてきた夜が そっと退屈に火をつけた 火をつけた”という一節が、昨年の春から今日まで延期された今夜のライヴにぴったりだ、と思ったからであります。

 ドレスコーズで一番好きなアルバムは3rd「1」なのですが、この“ハーベスト”が入った2nd「バンドデシネ」は一番聴いたアルバムかもしれません。かつて4人組のロックバンドとして結成されたドレスコーズが最後にロックンロールした作品である、という印象です(トートロジー!!ロジー!!男だろ泣くな)。



 7、8年前、ブルーハーツ大好きな高校の友達とそのまた友達(その日が初対面)と三人で、年越しフェス“カウントダウンジャパン”に行ったんだけど(滅茶苦茶楽しかった)、そこで観たギターのマルさんのオーラないし気迫が凄まじかった。

 日本人離れした俳優みたいな顔で、ロックとは思えない前衛ジャズみたいなフレーズを弾き、というか弾かないで弾く、みたいな無の瞬間も多々あり、表情一つ変えないで客を睨みつけ、一言も発する事無くステージから消えてった。前に居た女の子二人が天を仰ぐよに見惚れていたこと、それも併せて鮮烈な記憶として残っております。

 ライヴ後、会場でアルバム「バンドデシネ」を買うと“サイン付きポスターが貰える”との事で、西くんの居るスターベムズやマンウィズ目当てで来ていた高校の友達の友達がドレスコーズ初見だったけどアルバム買って来て、「ポスターほしいでしょ、あげる。今のライヴ見てアルバム聴きたいだけだから」と云ってわざわざサイン付きポスターをくれたり(自分はもう「バンドデシネ」持っていたから)、本当に嬉しかった。



 「バンドデシネ」を聴けば瞬(またた)く間、自分がバンドを組む直前の、キラキラとした場面が走馬灯みたく、みな青春みたいに蘇る。このアルバムが素晴らしいのは間違いない事実だけど、同時に喚起されるその青春みたいなものが楽曲によるものなのか、つまりドレスコーズにとっての青春によるものだったのか、或いは手前の二十代が過ごした青い春の輝きによるものだったのか、青春は遠くなりにけり、今となっては余計に分からない。



 カバーMVについての前置きが長くなってしまった。白状すれば今回のカバーに実は意図なんて無く、なんとなく なんとなく(←スパイダース)、得意のアコギ弾き語りに大好きなローズピアノを添えて、ぐらいのシンプルなものでしかない。ありのまま素の自分でしかなく、もっともらしく客観的に語る事ができない。撮影時の服装だって、3年前のジーンズにセーター笑っていいぜ(←YOSHII LOVINSON)で特筆すべき事がありません、というのが今回の特筆すべき事でしょうか。

 原曲が完璧で理想的なバンド演奏──だから好きなんだけど、いざ手前はどういうアレンジでカバーするのか──となれば自ずとこう演るしか術がない。しばらくは気負う事なく、ギターと歌だけでシンプルにカバーしてこっ、というのが今の気分でもある。平成の呪縛から解かれて、清々しいや。



 中野に用事があったので、サンプラザへ寄り道
──ライヴ参戦しないけど、みな愛に気をつけてね


 日差しも風もそこそこに、花吹雪がはらはらと
──とある令和の四季はじめ、この春もまた儚く短し


 きっと全てハーベスト
──いつの間にやら葉桜に


 花相似たり、人同じからず
(劉希夷「代悲白頭翁」より)
──ある令和にいる
(「粋な男のバーニン日記」三月三十一日号)


2021年3月29日月曜日

ない世界にいる

物心つくか、つかないかの時分に入学。四半世紀を費やし、遂に卒業式である。3列目センターのC11、とっておきの席を目指す。



 ここでネタバレしないが、真っ新(まっさら)な心持ちで観たい方はこれを閉じてくだされ。



 以下、映画の外の話:四半世紀のこと、平成と令和のこと


ない世界にいる
ない世界に着いた

ひとりでに思い出す

色んな話をした
色んな声を思い出す

色んなバスに乗って
色んな授業を受けた
色んな電車に乗って
色んなお店へ行った
色んなモノを買って
色んな帰り道を歩いた
色んな夜遅くに眠って
色んな覚えのない夢を観た
色んな取り留めない忘れて

色んな人に出逢った
色んなはもう居ない
色んなは二度と無い

ひとりでにない

ない世界にいる
ない世界はあった世界で
ない世界はない世界とも違う

後悔はしない方が良い
と後悔をする
それは良い
前よりか絶対良い

おめでとう
あんたバカァ

ひとりでにある

ない世界に着いた
ない世界にいる

過去と未来の
アニメとリアルの
目視と想像の
それらすべてあって
なんら区別の


ない世界にいる




 二年程前、猫も杓子も大絶賛した映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観賞した際は、多分に順序立てて己れ自らを納得させたけれども、今回の「シン・エヴァンゲリオン」は手放しで、皆と同じく大絶賛であります。私は良い客です(と良い客は自ら名乗らないが)。


 実は人類補完計画の為、実はゲンドウの為、実は手前ら客の為、いやいや庵野秀明の為、というメタメタにメタな構造で貫かれているのは以前より周知の事実でありますが、やるせない気持ちって、こうして俯瞰してやっと捉えられた気がするものです。失敗した友情やら愛情やら、忘れ得ぬ人たち全てに蹴りをつけるべく人類補完、いやゲンドウ、いやいや庵野、手前ら客だろ、とまたメタる野郎、グラム歌謡メタル野郎!!



“Are you burning?”セントラルドグマッ



ない世界にいる


2021年3月13日土曜日

2+0+2+1=5cow-五鈷

昨年を振り返り、2020という数字の並びについて考える──AKIRAのネオ東京よりか平穏無事に過ごして居られるが──オリンピック2020は、やはり幻となった。



 夕べ消灯する時には無かったと思うが、ふと横になって天井を見上げれば、蜘蛛の糸が垂れている──近頃の私は芥川が過ぎる──その糸を掴んでこの地獄から這い上がろうぞ、と決意するには普通過ぎて変哲の無い糸、有り触れて小指で千切れてしまうくらい。



 ぷかぷか揺れる糸に蜘蛛の姿すら無く、人間の相手は人間ばかり、有り難く小指で契りを交わすくらい──そう、救いを約束する糸ではない──蜘蛛が遊びに来る程ここは極楽、と言う方が適切である。



 人間の私は未だ気付かないで、それは心臓が絶え間無く拍動している事を今更に考えないくらい──気付く野暮は二十代で懲りて、極楽か地獄かはもう問題にならない──偸吉、邪太郎、妄介、殺雄、飲五郎、みなと過ごした日々はもう戻らない、五つの戒めも、卵と呑み込んだ!!

 粋な、活き活きとした、生きもの──ここに降り立つ蜘蛛が如く──どこまでも愉快に。


2+0+2+1=5cow-五鈷


2021年3月3日水曜日

「Nori MBBMのカバーMVシリーズ」まとめ3

皆様おはようございます、ノリ・エムビービーエムです。

 平成28(2016)年12月末からゆるりと始めたこの活動も、お陰様で30作目を数える迄になりました。MVを観て頂いた方、撮影に携わってくれた友達、そしてこれを読んで下さっている貴方に、心より感謝を申し上げます。ありがとうございます。

 当記事では「Nori MBBMのカバーMVシリーズ」まとめ3と題しまして、MVの21~30作目をご紹介いたします。




~~~~~~


「Nori MBBMのカバーMVシリーズ」まとめ3


21.「恋のハイパーメタモルフォーゼ」(2018, ザ・クロマニヨンズ cover)

 ザ・クロマニヨンズ、2018年の作品(作詞・作曲:甲本ヒロト)。カバーMVは2020年3月にアップ


22.「Lonely Planet Boy」(1973, New York Dolls cover)

 ニューヨーク・ドールズ、1973年の作品(作詞・作曲:デヴィッド・ヨハンセン、日本語詞:Nori MBBM)。カバーMVは2020年5月にアップ


23.「ハリキリ坊やのブリティッシュ・ジョーク」(2007, 髭 cover)

 髭、2007年の作品(作詞・作曲:須藤寿)。カバーMVは2020年8月にアップ


24.「What Do I Get?」(1978, Buzzcocks cover)

 バズコックス、1978年の作品(作詞・作曲:ピート・シェリー、日本語詞:Nori MBBM)。カバーMVは2020年9月にアップ


25.「I'm swayin' in the air」(1983, THE ROOSTERS cover)

 ザ・ルースターズ、1983年の作品(作詞・作曲:大江慎也)。カバーMVは2020年10月にアップ


26.「Nori MBBMの夢は夜ひらく」(1970, 藤圭子 cover)

 藤圭子、1970年の作品。三上寛が1971年にカバー(作詞:Nori MBBM、作曲:曽根幸明)。カバーMVは2020年11月にアップ


27.「追憶」(1974, 沢田研二 cover)

 沢田研二、1974年の作品(作詞:安井かずみ、作曲:加瀬邦彦)。カバーMVは2020年12月にアップ


28.「Steppin' Stone」(1966, The Monkees cover)

 ザ・モンキーズ、1966年の作品(作詞・作曲:トミー・ボイス&ボビー・ハート、日本語詞:Nori MBBM)。カバーMVは2020年12月にアップ


29.「Walking the Cow」(1983, Daniel Johnston cover)

 ダニエル・ジョンストン、1983年の作品(作詞・作曲:ダニエル・ジョンストン、日本語詞:Nori MBBM)。カバーMVは2021年1月にアップ


30.「LEMONed I Scream」(1996, hide cover)

 ヒデ、1996年の作品(作詞・作曲:hide、日本語詞:Nori MBBM)。カバーMVは2021年3月にアップ


~~~~~~


 ちなみに、撮影用カメラにはソニー・サイバーショットの型落ちモデルを何年も何年も使っているので、「今時スマホのカメラの方が画質良い」とか「撮影のプロにちゃんとした機材で撮って貰うべき」など、ご指摘を頂く事があります。お気持ちは嬉しく、鮮明で高画質なMV、というのは何にも勝る気がします。

 ただ私の心は、彼の谷崎が認(したた)めた“陰翳礼讃(いんえいらいさん)”という思想によって貫かれて居るのです。我がカバーMVに関して言えば、2000年代初頭迄のブラウン管テレビが点描する不明瞭な神秘であり、VHSやベータによる記録が記憶の曖昧な模糊であり、LDの半透明インナースリーブが鼻を抜けて薫(かお)る恍惚であり、ATGやニューシネマの不条理が落とす陰りであり、1976~99年まで西新宿に構えたロフトのステージと客席に閉ざされた翳(かげ)りであり、T.レックスで歌われる処の“20世紀少年”の礼讃そのものなのであります。

 このまま年を取って老害と云われる未来もあるやもしれぬが、これは信念であるから押し付けるつもりもなく、ただ良いものであると疑わずに生きて居るのです。西洋方便 科学陰惨、文明御免 陰翳礼讃。


「MBBM killed the YouTuber.」
by Nori MBBM

Video killed the Radio Star.の内の誰ももう居ない。そもそもレディオだって活字のアイドル達を本当の意味で人間失格させた。文豪という生き物は二次元に消え失せた──それは元々か。SNSで私はビデオやラジオや活字のサイボーグとなるが、SNS自体どうなるかしらん?

回答①今世紀の始まり方は肌身を持って知っている。一つ前の20世紀は映像で、それより前は本で知っている。さらに、各世紀に時代を語る者が居る。しかし、悪い事ばかし語る者ばかり、良い事は見当たらぬと言わんばかり。

かつて、お金の無い娯楽は紙面いっぱいの活字だらけ。いまや、時間も無い娯楽は倍速ぜったいの映像だらけ。そして、お金と時間の無い娯楽は一杯も絶対も呑み込んだ私だらけ。私だけ?

回答②もし私が先に亡くなったら愛しものよ、誰の云う事も聞かないで呉れ給え。君を大切にしようとするものが現れても何も見失うことなく、ひどく傷ついてしまわぬ様に。


愛しものよ、我がカバーMVよ、永遠に




2021年3月1日月曜日

レモネードアイスクリーッマ

令和三年三月、“Nori MBBMのカバーMVシリーズ”は、遂に30本目と相成りました。



 記念すべき今回は、“我がロック四天王”の一人であるhideさんの名曲「レモネードアイスクリーッマ」で御座居ます。黄色っぽいし春っぽい、黄泉っぽいし春に会いましょうっぽいでしょ。

 “我がロック四天王”はみな“グラム歌謡メタル野郎”と言い換えられるんだけど、hideさんも云わずもがな、グラムロック、昭和歌謡、ヘビィメタルへの愛を数々の音楽誌やラジオで語っておられました(ミーは十代の頃にインタビューもラジオの文字起こしも貪り喰らっていたので、肝に銘じているhideさんの言葉が幾つもあるワ)。


檸檬、それは梶井云う処の爆弾
(高円寺民お馴染みの高野青果で8個入り198円也)

 hideさんのギター論(練習における挫折やリズムの話)、パンク論に歌詞論(クラッシュとかブルーハーツの話)など、どの話もマヂ面白えので誰かと語り明かしたいが、当記事でそれをやると話が四分五裂(しぶんごれつ)して収拾がつかなくなるから一旦置いといて、今回の「レモネードアイスクリーッマ」の話をしましょう。

 15、6歳で初めて聴いたそのナンバーは、ミーと同じ“グラム歌謡”の匂いがしたのである。初めてなのに、前にもあった気がしたのである。hideさんは当初「1996年のヴェルヴェット・アンダーグラウンドの新曲」ないし「昭和歌謡のデュエットソング」をテーマに作曲したと仰られていたので、なるほど合点です。ライヴだと女装したチロリンさんとデュエットで演っておられましたね(いとグラム歌謡で候)。


 そんな完璧なグラム歌謡ナンバーへ真心込めて、原曲の魂を受け継ぎながら天上天下唯我独尊、私なりに演らせて頂きました。

 まずオープニングのメルヘンなオーケストラですが、私の手弾きシンセ、シンセ、シンセを重ね重ねに重ねまくって、結構忠実にカバーできたと自負しております。キラキラした遊園地のメリーゴーランドや、コーヒーカップがくるくると回る光景、そんな様なものが貴方にも見えたならば幸いで御座居ます。

 次に打ち込みのドラムはhideさんとか布袋さんをイメージして、モジュレーションかけまくりの“ポヨンポヨン”な音にしました。超具体的に言えば、Xの「セレブレーション」とかBOOWYの「ワーキングマン」のイントロのバスドラのあの感じ。

 そしてギターに関しては、私が歌いながら弾いているイントロとアウトロのフレーズにはフランジャーやコーラス等の空間系エフェクトを強烈に掛けて、それ以外のリズムギターはほぼクリーントーンのままチャカチャカとファンキーに演奏いたしました。跳ねるリズムで歯切れ良くカバーしたかった為、原曲の様にワウを使う事はしませんでした。

 最後にボーカルですが、こちらは原曲よりエフェクト弱めで、はっきりと言葉が聴こえる様にレコーディング・ミックスいたしました。恒例、ルースターズの大江方式で、前半は原詞、後半は日本語訳詞となっております。


「LEMONed I Scream」
作詞・作曲:hide
日本語詞:Nori MBBM

One day, I was walkin' down the streets
Looking for anything, Any surprise
Feel like a treasure game on a rainy day

Then it happened suddenly, I saw, I saw
And there it was fallin' down under my feet

Then, You know, It had something spiney head,
And I was gonna touch it
Then I got a pain,
My fingers painted in blood,
but I feel so fine

Nobody could find out, but I knew, I saw
I don'care if nobody can love it, oh yeah
Because ah hahahaha

ah… I've got a feelin' in my hand
It's a lemon lemon lemoned - I scream!

とある日、散歩をしてたの
イカしたミュージック聴きながら

そしたら突然、アヒャ、アヒャヒャ
と聴こえてきて
ええねん、ええねん
いこうぜ、ああん

ああ、ご馳走だ
スウィート・ポイズン・ケーキ
喰うて即ハイ的な
早よ早よ

嗚呼、性別年齢不詳ソング
It's a lemon, lemon, lemon & I scream

ああ、心から壊れたマシーン
でも大好き、大好き

嗚呼、なんて不適合者
It's a lemon, lemon, lemoned I scream! yeah

It's a lemon, lemon, lemoned I scream! yeah

It's a lemon, lemon, lemoned I scream! yeah


※Lemon:ミカン科の常緑低木、その果実のこと。
(俗語で)欠陥品、不快なもの。



メリケンのサブカルを敷き詰めた様な部屋にてMV撮影す

 今回はストリートファッションを気取って、罵詈雑言が列挙された黒のトレーナーにスキニーパンツ、昨年のドールズのカバーの時も履いた厚底のラバーソールを(このラバーソールのブランド名に“レモン”という単語が入っていたので)。後はオーテクのレモンイエローなヘッドホンを首にぶらん、と。


15年以上前に通った塾も今は誰かの一軒家
(高円寺から1時間半かけて一目見に)

 レモンが私に連れて来てくれるのは──レモンの飴を舐めながら勉強していた学習塾の小さな教室の湿った匂い、参考書の焼けた余白と目に痛い文字列の黒、履き古されて色褪せてほつれたスリッパ、立ち上がる度にミシッと軋む床、部屋の隅で必死に唸る暖房ヒーターに、尊敬する石川先生の低い声と咳払い──十代の断片達。

 二十代であれば、カクテル用レモンを仕込むライヴハウスの薄暗いキッチンの中、或いは付き添いで通った病院近くの喫茶店の低いテーブルとレモンティーのグラスの汗。

 同じ柑橘類でもミカンの匂いならまた別に、実家やら友達の家やら給食やら職場での記憶を引き連れて来る──そういえば芥川の短編「蜜柑」の冒頭は、hideさんの生まれ育った横須賀から始まるね──匂いとノスタルジーの話。

 貴方だって石鹸が香れば、学校の蛇口にぶら下がるネットがそれに食い込む様や、校庭にサッカーボールが擦れる音、野球部とかバスケ部の奴等の下卑た笑い声を思い出したりするであろう。

 私の場合なら実家の洗面所で、手を洗う直前まで作っていたプラモデルのディテールや、組み立て途中のパーツの形状、掛けられた手拭きタオルの柄や大きさを思い出したりするのである。

 外へ出れば近所から煮物の匂いがして、狭い裏路地に続く生け垣の高さや、夕暮れの太陽と雲の分布の仕方に、夜に成りかけた橙と紫のマーブル模様の空を思い出したりもする。

 嗅覚とノスタルジーにはキリがない。切りがなくて、意識は全て繋がっていて、結局、三つ子の魂百までと為る。


如何なる時もグラム期のボウイ様がミーの背後に

 勿論、目にだって耳にだって口にだって、手足にも沢山あるけれど、私は鼻──またぞろ芥川──が人よりデカいからか、そこが一番の記憶装置となっている様である。

 このデカい鼻……まあ目も耳も口も手足もデカいんだが、それらを生かして、千差万別の記憶を次々と手繰り寄せ、これからも芸術して行く所存で御座居ます。


 とりあえず30本できました、どうぞ宜しく!!!