実家にある勉強机(兄のお下がり)の引き出しに、小学校の時の読書感想文を見つけてしまった。「我ながらよく書けたぞ」という記憶は一つもないので、情感の一つも表せていない駄文であろうと読んでみれば、思いのほか手前の必死が滲む位には書けている。手前の必死というのはこうも身に覚えなく、君以上に誤解され、忘れ去られるものである。改めてそう感じ入り、この読書感想文の更なる感想文を認める。
とは言え感想文の締め方、その結末が揃いも揃って酷かったので、今までの記憶はやはり確かなのであった。“泣きました”、“感動しました”、“勉強になりました”、“がんばりました”、“ありがとうございました”といった具合に、どの感想文も同じく凡庸たる過去形を迎えていた。自主的な没個性、若しくは慇懃の無礼を自覚している。言い訳をさせて貰えるなら、想定され得るあらゆる読者から馬鹿にされたくなかった為、手前から馬鹿となっていたのを覚えている。ある程度、考える事(=独自性・独創性)を放棄している。当時は“バードアイ”なんて格好付けていたが(←楠みちはるの漫画で知った概念)、謂わば鳥瞰、より誇張すればメタ視点と云えなくもない。
その代わりと言っては何だが、お絵かき帳やじゆう帳では一人天下を取っていた。中途半端な恥は命取りになるが、命にかかわる恥であれば手前で如何様にも出来るのである。飛行機や戦車やその内部構造のイラストに、独自の解説や講釈、型番やスペックを表す幼稚な文字が所狭しと羅列されていた。今の己れと直結していて、否定が即死に直結する恥である。当ブログ記事では是らを、敢えて他人事として扱う事とする。世俗に塗れた代償を払いて、成果を上げようと試みる。螺旋構造に気付いて、全長以外は変わらぬ形状をしている事と思う。ほら、来るよ──
最後に、ここまで読んで頂き、ありがとうございました。泣きました、感動しました、勉強になります、がんばります。