令和元年に文庫版として新たに刊行された「くるりのこと」を先ごろ読了したので、「こと」の“こと”のその次第、書き綴る。
くるりがQURULIのQは9に因み、其の一から其の九まで書籍からの引用とそれに対する考察を順次列挙してゆく(1996年にくるりというバンドが結成された、この9月に)。
※一視点からくるりと連なる物語を見出だしたかったので、書籍からの引用は全て岸田さん発言のものだけを選んだ
2016年に刊行された単行本へ新たなインタビューを加えた文庫版を原典とす
【其の一】
ある日ね、そのルーズリーフを机の上にそのまま置きっぱなしにしてたら、俺の机の周りに人だかりができていて。「おいおい、岸田がポエム書いてるぞ!」って言われて。まぁ、それは結構トラウマになりました(笑)
(p24、第一章より引用)
この話は岸田さんのツイッターでも度々呟かれており(ex.19/1/21、20/9/30の公式ツイート参照)、作詞だけでなし作曲に対する考え方についても、大きな影響を与えた出来事であると思われる。
手前で抱いていた個人的なくるり観──押し付けがましく具体的なメッセージに成り得“ない”言葉・文章で作詞すること、愛聴してきた楽曲に使われるコードやその進行を分析した上で理論的・構築的に作曲すること──の説明が付く、訳が分かる、合点が行く。机の上のルーズリーフに群がって下卑た声で囃し立てる連中へのカウンターである(俺はそれで野球部の馬鹿と一切口を利かなくなった)。
しかし同時に私は、出しゃばりな言葉で歌われて、手垢の付いた感覚的なリフを弾かれたら、それで十分な人間であった、それが充分に分かった、くるりとの距離が解った、岸田さんとの差異が判った──くるりのことのこと。
【其の二】
俺らはもう、その京都に脈々と流れるブルースの神様たちの末裔(まつえい)になるんだみたいなモードに完全に入ってたから。
(p39、第一章より)
エレクトロニカやヒップホップなど打ち込み音楽的な事も演りつつ、思いっきり古典的・ルーツミュージックなフォークとかブルースとかそこに根差したハードロック的な演奏もする、くるりのそれが不思議で堪らなかったけど、そうか京都は村八分か騒音寺か(石、転がっといたらええやん?)、あゝフォークルも居たか(あの洒落とユーモアがあればこそ!)、とこれも至極納得。
【其の三】
特に、もっくんも含めた当時の3人は、自意識が欠如してる人の集まりっていうか。これはいい意味で言ってるんじゃなくて、音楽業界がレールを敷いたスター・システムみたいなところにのっかるためには、悪い意味で俺らにはナルシスティックなところがまったくなかったんですよね、みんな。
(p96、第二章より)
存在価値のシラフなんだ、くるりの魅力は。存在証明の倒置法なんだ、ロックの奴等は。そんな自意識、くるりには要らない。こんなナルシスティック、ロックって恥ずかしい。“いい意味ではない自意識の欠如”、“悪い意味でのナルシスティックのなさ”。シラフなんだ、くるりの魅力は。倒置法な(以下、略)
【其の四】
(ナンバガ・向井くんは)ちょっとね、ノリが演劇っぽいっていうか、芝居がかってるなって思って、最初はなんとなく苦手やったんですよ。
(p110-111、第三章より)
(【其の三】の己が主張の続き)んだ、ロックの奴等は。シラフなんだ、くるりの魅力は。逆説的なんだ、ナンバガの魅力は。反語的なんだ!?This is 向井秀徳だ!!
“何故、そこまでして、腹を切らなきゃいけんのか?何でそこまでして、自分の、プライドを見せ、つけなきゃいけないのか?俺にはよう分からんが、凄い、それは、素晴らしい事だ、かもしれなせんね?SAMURAI(ライヴ盤「シブヤROCKTRANSFORMED状態」の向井秀徳・MCより)”
かもしれ“な”せんね?(←超好き、謂わば自意識とナルシスティックの理想形)
【其の五】
音楽って、結局そこに込められた熱量やと思うんですよね。「完成度が高い」とか、「こういうコンセプトだからいい」とか、いろいろ作品によっての良さってあると思うんですけど、「図鑑」の良さは絶対的な熱量が高いこと。
(p121、第三章より)
熱心なくるりファンからの人気が高いとされる「図鑑」にあまりピンと来なかったのは、その熱量の高さが俺に分からなかったからか。一方で“完成度が高い”上に、“こういうコンセプトだからいい”と感じたから、「THE PIER」が、「ワルツを踊れ」が、「TEAM ROCK」が、飛び切り名盤に聴こえるのか(是ぞ己がくるりベスト3)。あと「NIKKI」もマジで愛してる(ど直球のストレート・変化球なし、くるりがくるりしていないというメタくるり状態・俯瞰で捻くれて結局くるり常態)。
【其の六】
(コラボしたユーミンについて)音楽的にはすごく褒めてくれたんですけど、歌詞の書き方については徹底的に直された。直されたというか、アドバイスを受けて。まぁ、歌詞にもいろんなやり方があるし、ユーミンのやり方がすべてではないと思うんですけど、俺の歌詞ってわりと直感的で散文詩的じゃないですか。
(p229、第六章より)
歌詞にちゃんとストーリーがあることによって、聴いてる人は誰でもそのシチュエーションを想像することができて、歌の登場人物の気持ちがわかるじゃないですか。そういう曲の作り方って、俺まだその当時かなり弱っていたんですけど、それもあってすごく心に響いて。なんか、新しい宿題もらったような感覚がして。次の「言葉にならない、笑顔を見せてくれよ」で、何曲かそういうことにチャレンジもしたんですけど、いまだにその壁は越えられていないですね。きっと、ソングライターとしての自分にとって、一番苦手なところだと思います。
(p230-231、第六章より)
この長過ぎる引用の方がメインとならぬ様に、手前の主張をここぞとばかり一生懸命に述べてやろうではないか(岸田さんが重要なことしか言わないので、引用のどこも省く事が出来なかった)。
俺は、くるりの真髄を見たのである。思い掛けず長所と短所というものは表裏一体を成すもので、先の引用に述べられた事実こそがくるりの、岸田さんの真の長所であり、“98年の世代”──くるり、ナンバガ、スーパーカー、中村一義ら──の衝撃であったと考える。
岸田さんの持ち帰った“新しい宿題”とは、今や“J-POP”と呼ばれたりもする立派な肩書きを持った偉大なる先達・先生達から与えられたもので、そんな「J-POPの課題・宿題なぞ知るかいな」と傍若無人に振る舞うが如き“98年の世代”の鳴らした音楽こそが、J-POPに対するオルタナティヴ(代替物)だったのではなかったか。1998年(平成十年)とは、昭和に有り得ぬ平成が十年で遂にモノにした、日本の大衆音楽に相対する、オルタナティヴロックが生まれた瞬間ではなかったか。明確なストーリーや登場人物が不在の、意識の断片が刹那、フラッシュバック、現代に似合いの、カットアップ、平成に似合いの、ファック、無意味な意味深に、崩れたベルリンの壁に、弾けたバブルの後に、ぶち壊された昭和の幻想に、ぶち撒けられた僕らの全てがあったのではなかったか。そんな歌詞ありかよ、こんな音楽聴いたことねえよ、と取り憑かれた僕らが夢にまで見た霊的なる存在、ピクシー(妖精)でもなく、ニルヴァーナ(涅槃)でもなく、ナンバガ(透明少女)であり、くるり(ワールズエンド・スーパーノヴァ)だったのだ。
そんなくるりの岸田さんが、わざわざ生身の身体で以て、新しい宿題に取り掛かって居るのだから、これまた受け取る方の先生も、涅槃でまったり、この世ならざる体で待ったり、する他ない、南無(♪チーン)。
【其の七】
これは俺の持論ですけど、バッハ、モーツァルト、ハイドン、そしてバロック以降の20世紀前半ぐらいまでの古典音楽、近代音楽っていうのを、ポップスと結びつけている人って、世界的にも結構少ないと思っているんですね。実は、ボブ・ディランの音楽にさえ、そういう要素を感じることがあるんですけど、そういう部分が、もしかしたら上の世代のミュージシャンの方々におもしろがられているのかなって気はしますね
(p235-236、第六章より)
俺は、くるりの真髄を見ていなかったのである。だってオルタナティヴはオルタナティヴでも、オルタナティヴの斜め上をゆくオルタナティヴだったのである(ティヴティヴうっさくてゴメン)。そうかピクシーでもニルヴァーナでもなく、レディオヘでもマイブラでもソニックユースでもなく、バッハにモーツァルトにハイドンだったか、(J-POPに対する)これ以上ないオルタナティヴの極みであったか……何故かふと十年以上前にナンバガ・向井さんが公式でYouTubeへアップしていた童謡「ふるさと」のオルタナ弾き語りカバーに動揺「ふるさと」したあの日の事を思い出してしまった(“98年の世代”のオルタナティヴ、ここに極まれり)。
立派な肩書きを持った偉大なるJ-POP先生、オルタナの教え子が放課後の音楽室でクラシックとか童謡を演っているの、微笑ましく見ていたって訳かい?
【其の八】
バンドも20年近く続けていると、普通やったら円熟の演奏とちょっとしたエスプリで、音楽の色気を醸し出して、みたいな感じになりがちじゃないですか。でも、「THE PIER」では寸分の狂いも許されなくて、全部に決まりがあって、それを肉体を通して演奏することで敢えて自然にやってるように聴かせるっていう、ちょっと頭のおかしいやつがやってる実験みたいなことをやっていて。だからちょっと、第六感みたいなものが鋭い人が聴いた時に、気持ち悪がられることが多いんですよ。
(p280、第七章より)
手前の第六感の感度がどれ程のものかは知らぬが、こんな馬鹿でも情緒的なことに関しては昔から人一倍の自信がある(何だその自信は)。であるからして、「THE PIER」が、くるりのアルバムでいっちゃん好きや、それがこの訳や(以下、詳細)
思えば“気持ち良い”と感ずるものほど世間にとっては“気持ち悪い”とされるものばかりで、“素直だな”と思うものほど皆様にとっては“捻くれてんな”って奴ばかりで、“自然と違和感もなしにウキウキしちゃうワン”と嬉しくなっちゃうのは“なーにこれ人工甘味料バリバリじゃんウゲ”って嫌な顔されちゃうの……これってすっげーすっげーグラムロックぢゃん☆☆☆(←因みにこれボランちゃんの頬に付いてた星ね)。え、括弧内の事までちゃんと説明しろって?当記事は「くるりのことのこと」、その本題へと戻らねば怒られちゃうわよ~、一体誰に?って、アンタのオレよ、アンタの中のアタイに値しないアタイよ、それ本当は他人なのよ!?
そんな他人なんかと同じ事したくない、一理ある。だが本当にそれだけか?実は規則的な生活を送っている人より、不規則な生活まで味わって、誰より規則的になりたいんじゃないか?バランス良い食生活なんて知らねえぜ、こちとら滅茶苦茶偏食だもんで、これが、これだけが、これだけで、よくよく誰よりバランス取っているんじゃないか?変態ですよ、だって誰より平凡ですもの。中庸ですよ、だって誰より際物、極者、キワモノですもの!!
えゝ、大好きな「THE PIER」というアルバムの話ですが何か?私の話ではありませぬぞ!?ぐぬぬ、そう云われてみれば確かに、至極個人的な私事でしたわネ。「くるりのことのこと」と銘打っといて、こりゃ失礼しましたワ★★★(←因みにこれボウイ様の置いてったブラックスターね)。え、括弧内の事までちゃんと説明しろって?デヴィッド・ボウイよ、そうよ忘れもしない2016年は1月10日(日)よ、出勤して職場の人に「大丈夫?」「死んじゃ駄目だよ」って慰められたんだから、泣いちゃいないわよ、それどころかバンドで一曲作ってやったんだから、“ブラックスタートゥインクル”言うてね、奥さんイヤねえ知ってるでしょ~、こう町の井戸端会議が一向無くならないのは、そう国の有識者会議より一層大切な事が議論・検討されているからよ、あんなの下らぬ話に高尚な題目つけただけよ、人生物語の端から端まで全て取り揃えたいのよ、そら貴方も端までゆくわよ、こりゃ桟橋よ「THE PIER」の話なのよ!!
【其の九】
でも、(アルバム「ソングライン」の)その作り方に関して言うなら、やっぱり異常な作品なんですよ。人肌っぽい曲やサウンドにするために、作ってる側はもうパソコンを前に血走った目でマウスを動かしてるみたいな(笑)。
(p313、新章より)
生々しい初期衝動からなるロックンロール、リバーヴやディレイなど掛け過ぎない様に、DTMソフトのタイムライン上の同じ所ばっか不安そうな顔で幾度となく徘徊し、執拗にエフェクトの加減を確認し、順番を入れ換えたり結局元に戻したり、恩返し真っ只中の鶴が織り出し紡ぐが如く、人知れず繊細なミックスを施してゆく──直感的で、計算度外視な、天性の振りをして──つるは、むしったじぶんのはねで、はたをおっていました。「すがたをみられたら、おわかれしなくてはいけません」。つるはよわよわしく「こうー」となき、そらへかえっていきました。
一方で、無機質かつ神経質に戦慄くプラスチックのロックンロール、心血を注いでパキパキと緻密に打ち込み、バキバキに打ち込み、バシバシ打ち込み、徐々にリズムがずれて歪んで行っても気付かずに、それが余念なく、信念めく、情念めいて、怨念めいた思い、目眩く想い、思い掛けず重たくなり、理路整然とした当初の軽いヴィジョンは綺麗さっぱり──むかしむかしのおはなしです。あるところにびんぼうなわかものがいました。ゆきのひ、わかものはいちわのつるをみつけました。バサバサッ、バサバサッ。「たいへんだ。わなにかかっている」。たすけてあげると、つるは「こうー」となきました……(そして物語は前段の結末へと繋がるって訳、くるり輪り廻って岸田と繁るって訳)
僕らこうして右往左往、のらりくらり、くるり駆け巡る訳が、一所懸命ゆえ。うっさいのもしんとしたのも、あっついのもさめざめしたのも、一生懸命ゆえ。いつも厳しかった書道の先生ごめん、珍しく褒めてくれたその達筆も実は二度書きで。面白いと笑ってくれた友達ごめん、嬉しいと喜んでくれた恋人ごめん、どれもこれも打算的な悪知恵が働いて。ただ唯一の救いは極め付き、くるり一周してしまえたら、一番遠いが実は一番近かったんだね、不純に思う事の純粋だね、見透かされちゃうよね……嗚呼そういえば、くるりのことのこと、多分ついさっき、めでたしめでたしっした、皆様おつかれっした(完)。
我誕生日、回転之事、初版刊行、偶然必然!?