2017年3月18日土曜日

紳士Nori MBBMの生涯と意見

天上篇より


──おれがおまえを傷つける必要がどこにあろう? この世の中にはおまえとおれを両方とも入れるだけの広さはたしかにあるはずだ
-トウビー・シャンディ

 皆様、私奴が二百五十年の時を経て改めてここに掲げたい事は、Nori MBBMが夏目漱石先生の様な面持ちで申し上げます(と言ってもあれ程の髭は生えてきやしませんが)、二ト半世紀前に生きた海鼠(なまこ)──否、性器を窓にスパーンされたこれが本当のギロ**子トリストラム・シャンディ──否、精気迸(ほとばし)るスターン家の申し子ロレンス・スターン──否、世紀の乳呑み児(ちのみご)──否、いやはや勢い余って──否、のつもりもないのに──否、と入れてしまうのは動物精気が過ぎますね、奥さま──何なのよ貴方、卑猥な事ばっか言ってないで、さっさと話を進めなさいよ!──そうかっかしないで下さいませ、世の中には無駄がないとやっておられません、そうでしょう、奥さま?仮に私の髭(ひげ)がチョビっとしか生えないものとしても、貴女のソレで無駄に多少の脈絡がもたらされたりもしますし、まず卑猥とは何ですか?その為にも貴女の古帽子(ふるぼうし)をとっくり拝見させて頂けませんか?とまれかくまれ無駄のない世の中なんて言語道断、まあまあこれは二ト半世紀経って無駄がほとんど無くなってしまったものですから、何と言うか無駄が無くて謂(い)わば無無駄というべきものです(この場合、二つの無ないし二つの損失を掛けて有駄、いや、ユダになるわい、などと冗談でも口外しないで下さい)。

 処(ところ)で今度、Unfinished Balladesという新しいロックバンドが初めての演奏会をするそうですよ──まあ、私奴のロックバンドなのですがね──あいや、ロックで思い出しましたけれども(以下に述べる事こそ、まさに今直面するこの現象そのものを表しているのです)、恐らくは哲学者ジョン・ロックの著書「人間悟性(ごせい)論(1690)」で論じられた観念連合を用いたのだと推測されますが、このUnfinished Balladesという聞き慣れないものの心地の良い響きや字面(じづら)は、United Kingdomの文化的な匂いや国旗の赤・白・青を連想させる事によって、その音楽までもが英国的に響いて聴こえるという仕組みになっている様です。

 いえいえ違います、このブログ記事で本当に伝えたかった事はこうです──皆様、私奴が二百五十年の時を経て改めてここに掲げたい事は(冒頭で申し忘れましたが、もちろん私と奴でワタクシメと読んで下さい)、ずばりその名も「精神支柱変遷表(せいしんしちゅうへんせんひょう)」というもので(名付け親は私奴であります)、これは千七百六十七年に刊行されたとある紳士の著作の九巻・第十章の片隅に載っていたものを私奴が拾い上げ、人生百年時代と云われる現代にも通用するであろう大変に学術的資料価値の高いものと判断いたしましたから、そこに多少の加筆修正と上に申した題目ばかりは付けてやりましたが、是非とも皆様の生きる糧(かて)、或いは滅びの果て、その他、酒の宛(あ)て、矛の盾(ほこのたて)、飼犬(かいいぬ)や道楽馬(どうらくうま)に対する「待て」、まあ何にでもご活用なさって結構な代物(しろもの)です。

 それでは「精神シチューポトフポタージュ及びルポルタージュ戻ってスープ味噌汁に脳の味噌は赤出汁(だし)?白出汁?皺(しわ)無し?脳無し?トリストラムシャンディ宛ての酒ガフ」でしたっけ?何とぞ御照覧(ごしょうらん)の程、宜しくお願い申し上げます。


「精神支柱変遷表」

*好奇心、損得観、意地、意地、意地、意地、最初の別離、意地、意地、意地、意地、意地、意地、意地、意地、意地、意地、意地、意地、意地、意地、第二の別離、意地、意地、意地、意地、意地、意地、長い不在期間、意地、意地、意地、意地、意地、意地、永遠の別離

永遠の別離=永遠の邂逅(かいこう)


*意地だけで三十個も用意いたしましたが、もし足りないようであれば何なりとお申し付け下さいませ、奥さま


 貴殿(きでん)よ、汝(なんじ)の最も従順、最も献身的、
 かつ最も謙虚なる下僕(げぼく)、並びに、

 自我の、最も献身的にして、
 最も卑(いや)しき下僕、

 Nori MBBM


“二百五十年の後、日本人某(なにがし)なる者あり、その著作を連想して物ずきにもこれをネット社会に流布(るふ)したりと聞かば、彼は泣くべきか、はた笑うべきか。”


 いつ迄に死ぬべきか、いつ人間をやめるべきか、それは過去の自分と出会う時、まだ大した過ちをしていない自身に逢う時、身と心と目の下に影も裏も闇も持たない、汚れ知らずの人間に出逢う時であります。

 わたくし紳士ですから、色々と隠して生きて居るのです。何の隠し立てもいらない生命(いのち)、それを認められたら御暇(おいとま)致しましょう。嗚呼、修羅場(しゅらば)が僕に見えている、阿修羅(あしゅら)が僕を待っている。いま行かなければ、すぐに逝かなければ──

 でも今日みたく何でもない日は、未(いま)だ人生を隠して居ましょう。いちばん安全なのは、財布を相手の金庫に隠し、財貨(ざいか)を相手の財布に隠し、心を君の胸に託(たく)し、あらゆる罪科(ざいか)を隠す事です。いつ死ぬべきか、失敗を償うべきか、過ちのない手前に出逢う時、君に全て託す時です。


 何でもない人間に、呪われた部分を御披露目(おひろめ)しましょう。最後の人間のそのまた最期、とくと御覧に入れましょう。


修羅篇に続く


2017年3月11日土曜日

「自伝本ハンター ~ワジー編~」(←日活のB級映画的に云うと)

自伝や伝記など好き好んでよく読むのだが、先月2月に刊行された人間椅子の和嶋さんの自伝本もまた、人生という時間芸術を波瀾万丈そのままに描いていて、冷や汗あぶら汗かきながら楽しく読了する事が出来ました──そりゃもう思い当たる節の連続で。

 今までを慈しむ穏やかな文体と、これからを生きてゆく静かな熱に溢れている良著。


ワジーの自伝本「屈折くん」の表紙
※後ろのCDは、己が学生時代に聴き込んだ人間椅子のインディーズ盤とベスト盤

 手前と同じ5月生まれの美輪さんの自伝本は、春爛漫の花盛りの如き色彩と生命力に溢れていたし(故郷・長崎を形容する豊饒な語彙が印象に残っている)、10月生まれの吉井さんの口述筆記で綴られる自伝には、秋の紅葉の様な成熟した郷愁と落葉染みた諦観の美しさが、そして12月生まれの和嶋さんのそれはやはり、冬の張りつめた厳格、誠実で凛とした心意気そのものでしかなかった(夏に生まれた方の自伝本はまだ読んだ事がないけれど、きっと爽快な夏の青空の様な清々しさがあるのかしらん)──

 これら全てに共通するものは四季折々の情緒、日本人特有の風情や趣き、こぢんまりとした可愛らしさやいじらしさ、そして奥床しさやお淑やかさ。自らに打ち克った先達の伝記は、飢えた心の糧となる。


 以下、和嶋さんの自伝本で印象に残っている箇所を抜粋する──

 “運動はことごとく苦手であった。まず勝ち負けを争うということができない。ましてやドッジボールみたいに相手にボールをぶつける競技など、もうひたすら野蛮としか思えない。体育の時間は苦痛であった。”

 第一章から既にワジーへのシンパシーを禁じ得ない。私自身、昔からスポーツが苦手な原因は(内気なデブだったっていうのもあるが)、勝つ程に残酷に為れず、負ける程にプライドが許さず、で存ったからで在る。スポーツは見るのも苦手、というか割かし興味がない。

 同じく第一章より──

 和嶋先生の息子さんならスキーが上手いだろうとまたもや勘違いが発生し、僕を上級者コースに入れてしまったのだ。憂鬱だった。”

 子供の頃の疎外感や劣等感に満たされた想い出の数々が蘇ってきた──これは大好きなキューブリックの映画「フルメタル・ジャケット」に出てくるデブいダメダメな海兵隊の訓練生が大嫌いな鬼教官を射殺した後、トイレで自殺するシーンを観て以来だ。

 自分も小学校の行事でスキーへ行った事があるが、あんなもんは生き地獄であった(小さい頃の方が人間、そういうすれ違い多いよな)。行きのバスがスキー場の駐車場に停まる所から、昨日の事の様に鮮明に思い出されるぜ──

 滑っては転んでを繰り返し、びしょ濡れの手足の指先が凍えるばかりで一向に前進しない──悪夢よりも悪夢、超絶リアル悪夢──すー、っだん!すー、っだん!といった具合である(別にجمهورية السودانへ行きたいのではない)。

 学年中のビリッケツでゴールへ着いた頃には、みんな温かい豚汁を食べ終えて「もう帰ろうよお」という雰囲気であった。スキーなんてキライーである(スキーだけに、寒い)。


 他にも“想い出を共有できない”、“疎外感”という事で云えば、公園で遊ぶとなると俺の知らない遊びにみんな夢中になるし、駄菓子屋へ駆け込むと俺の知らないお菓子をみんなで買って嬉しそうに食べている。自分も周りに溶け込もうと同じ遊びをして、同じお菓子を買うものの、無理に溶け込もうとする違和は周りにも伝播・波及して、自分はとうとう誰とも分かり合える事がなかった……。

 まだまだあるぞ、周りはコロコロコミック派ばっかだったし(俺はコミックボンボンなの!)、64かプレステかの二択で派閥争いしているし(セガサターン一択に決まっているだろうが、藤岡弘、だろうが、読点までが名前だろうが、)……なんだか口にしょっぱい味がしてきたぜ。


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 まだ一章しか触れてないのに、話が大分逸れてしまった。ワジー本で他に印象に残っているとこ?ええ、たんと、あるよ(もう雑に列挙す)!!

・ご先祖様が石川県出身だということ(一緒!)
・イカ天時代、高円寺の大和町に住んでいたこと(一緒!早稲田通りを抜けた辺りの描写が地味に分かり過ぎて笑う)
・その高円寺時代、エキセントリックな恋人がいたこと(一緒!)
・家賃滞納したこと(一緒!大家からの貼り紙や督促に血の気が引くところも、恋人といる時はそれを忘れようとするところも、後になって滞納分をまとめて払いに大家へ謝りに行くところも、もう何もかもが)
・日本語でロックンロール、ヘビィメタルをする事に命を懸けていたこと(一緒!一緒!一緒!)

 以上、異常に感銘受けっ放し。自分のいい加減な文章で誤解を与えそうだけど、流麗で落ち着いた、とても読み応えのある本です(第三章・暗黒編が本著のクライマックスだと思います)。きっと貴方の琴線にも触れるものがあるでしょう(別にワシゃ出版社の回し者ではない)──


裏表紙には若かりし頃の鈴木さんも

 皆様のおススメの自伝本もあったら、こっそり耳打ちで教えて下さいな。


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 4月になったら俺は新しいバンドでライヴすっぞ!

 4月15日(土)、町田アクトだ!出番はトップバッターだ!


 めちゃ気合入ってっからね!!!


2017年3月6日月曜日

フアンクハ平凡ナリ –ドレスコヲヅ、ソノ人ノ誕生日ニ寄セテ–

俺はファンクミュージックに疎い。これからもずっとそうであろうと思う。何故か──?

 ファンクって踊らせる音楽だから。いや、じっと黙って聴いていても良いだろ、って話ぢゃなくて。音楽の話なんで、音を楽しむ話なんで。そういう意味で、ファンクは俺に難しい。

 例えば、黄金期のJBでも良いしさ、じゃがたらでも良いや。伝説の名演とか名盤とか云われて、いざ聴いてみたらば、これが全然ピンと来ない。「ふーん、ガシャガシャ演ってんなあ」とは思う。ファンクが嫌いなのではない、嫌いな音楽は他に沢山ある──チャートに溢れるメンヘラ気取りのオナニーソング、お前だよお前!──そうぢゃなくて本題、ファンクの本質がこれ、掴めない。評論家のお偉方が凄い云うから凄いんかな?と無理矢理に自己洗脳しながら聴いてみる。だけどもどうして一向に、ちっとも露(つゆ)ほど感動できない。

 そんで今、リアルタイムで演奏されるファンク、現代のファンクミュージックを聴いてみたらば、「これは本当にすごいアルバムだよね。」と暗黒大陸じゃがたらの帯のタタキの近田春夫みたく言うしかなかった。感動した。踊りたくなった。即ち、ファンクそのものだった。

 ファンクの本質を掴んでしまった。太陽をつかんでしまった。サブリナ・ヘヴン──ノー・ヘヴン。ファンクの本質とは?一、ひたすら踊らせること。一、ひたすら繰り返すこと。一、ひたすらBメロだCメロだサビだ拒絶すること。だから凄いのだ、敢えてそれを演る事が。だから凄くないのだ、過去の名演や名盤は、敢えなく繰り返して終わるだけなんだ。で、これの何が、凄かったのよ?!と言いたくなる程、繰り返して終わるだけなのだ。


 俺はファンクミュージックに疎い。これからもずっとそうであろうと思う。何故か──?

 これからも、ずっとも、何もないのがファンクだから。今ここで、踊るべき、踊らされるべきが、ファンクだから。踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損、だから。ファンクはさながら阿波おどりなり、高円寺阿波おどりは高円寺民ぢゃない奴等の集いなり、手前のゴミも持って帰れぬならやめて欲しいなり。騒ぐな──り

 凄い事を云う暇があるなら、踊れ。凄い事を云う頭があるなら、放れ。ファンクはさながら、平凡なり。

 町田町蔵の「腹ふり」でも聴くか!──いま、聴いている!──いや、全然踊れんぞ!──けど、何か凄い気はする!──僕と共鳴せえへんか!織田作之助か!そういえば彼の小説も、凄いと思わせない処が、凄いと思わざるを得ない感じ、あるんだよな!──あゝ平凡、平凡。