『人間的な、あまりに人間的な』は、一つの危機の記念碑である。それは、みずから「自由な精神をもつ者たちのための書」と名のっている。その中の一文一文のほとんどすべてが、勝利を語っている──わたしはこの書で、わたしの性質にやどる非本来的なものから自分を解放したのである。わたしにとって非本来的なものとは、理想主義である。
-フリードリヒ・ニーチェ(Ⅰ)
平成元(1989)年五月(0歳)、東京都大田区にて生まれる。馬込文士村のあった馬込にて、幼年~青年期を過ごす(生家・本籍地は石川県)。文学的な興味関心は高校まで芽生える事がなかったが、軍事兵器や自動車等に関する書籍は二人の兄からの影響でよく読んでいた。物心ついた時から活字は好きだった様に思うが、決して本の虫という訳ではなかった。
平成八(1996)年四月(6歳)、小学校入学。一年生の国語の時間だったか、“えほん・ものがたりをつくろう”といった授業があり、そこで「のっぺらぼう」という作品を担任のI先生に提出する。恐らくそれでI先生から母へ連絡が行き、母から直接なにか言われた覚えはないが、その日の夜に仕事から帰って来た父と母が、息子の精神状態を案ずる様な会話をしていたのを憶えている(寝たふりしながら聞いていた)。
物語のあらすじとしては、顔のないのっぺらぼうが日本刀で出逢うもの全ての顔を次々と剥ぎ、場合によっては打ち首とし、みな同じのっぺらぼうとなった処で、主人公も自害して結末を迎えるというもの(まだ実家にあるかな?)。手前としては自信作で、「おもしろい本だね」「すごい話だね」と皆から褒められると本気で思っていたのに、友達も先生も怪訝な顔をして反応が良くなかったので、大変ショックだった。ただ二人の兄だけは面白がってくれて、「日本刀は一人斬れば刃こぼれしたりするから、こんなに何人も惨殺できないよ」と真剣に駄目出しをしてくれたのが嬉しかった憶えあり。
平成十七(2005)年四月(15歳)、高校入学。三年間担任だった現代文のM先生(鷺沢萠の麻雀仲間)より、様々な文学作品を教えて貰う。
教科書に載っていた森鴎外「舞姫」、夏目漱石「坊ちゃん」、「こころ」、芥川龍之介「羅生門」、中島敦「山月記」をはじめ、教科書に収録されていない太宰治、江戸川乱歩、谷崎潤一郎等の頽廃的、変態的な文学作品まで、授業そっちのけでM先生より細かに教示される(谷崎の「春琴抄」もここで“眼に針を刺し入れる克明な描写がヤバい物語”として知る事になるが、読む迄にはあと数年待つ事となる)。
上記、M先生と縁のあった鷺沢萠の「指」という短篇を授業で取り上げた日の事を妙に覚えている。先生お手製のコピー用紙に刷られた「指」を皆で読んで、登場人物の心理描写について議論したのだが、自分と友人がいちいち「“市原”悦子の指が」と発言すると「“家政婦は見た”ぢゃねえよ」「でもこれ市原悦子だったら嫌だな」と苦笑しつつ面倒そうに応えてくれたのを覚えている。20年近く経った今でも、こんなどうでも良い一日の、どうでも良い一場面が鮮明に記憶されているのだから、どうでも良くなかったのだろうと思う。もしかしたらこの日、文学の重たい扉を一度こぢ開けたのかもしれない──そして入らずに、すぐ閉めたはずである。
M先生からは山田詠美、江國香織、柳美里、吉本ばななら女流作家の他、ばななの父である吉本隆明(←後にミチロウ経由で再び読む事となる)や橋本治らも紹介して貰った。「柳美里って最初“やなぎみさと”だと思ってたら、そのまま“ゆうみり”だったんだよ」とか、先生がのぼーんと話していたのを昨日の事の様に覚えている。それから夏目漱石の「こころ」をクラスの皆で順番に朗読していた際、“何だかKの胸に一物(いちもつ)があって”という一節に「イチモツ?」「イチモツ!」「イチモツッ?」「イチモツッ!」祭りとなった事もある(男子校ゆえ御勘弁)。
平成十八(2006)年五月(17歳)、三島由紀夫の「金閣寺」を東京の丸善(十代の頃の己が行きつけ)で買う。本文と巻末の注釈を往き来しながら、第一章(5~39頁)まで読んだ処で「こんなもん賢く見られたいだけの文章やろ!」と投げ出した思い出(その後、手前の人生経験を積んでから再読、三島文学の父性その独断性に心酔す)。
平成十九(2007)年六月(18歳)、太宰治の「人間失格」を東京の丸善で買う。こちらは夜通し読み進め、一夜で無理矢理読破した。しかし共感する処一つとなく、「こんなもん哀れに思われたいだけの自慰やろ!」と腹が立った思い出(その後、手前の人生経験を積んでから再読、太宰文学の母性その共感性に心酔す、まい、と未だ強情を張り続けている)。
平成二十一(2009)年二月(19歳)、大学一年の終わり頃に人生初のエレキギターを横浜のイシバシ楽器にて購入(黒のレスポールのコピーモデル、アンプ・チューナー・ギターケース込みで2万円也)。ギターの神様にあやかろうと布袋寅泰の誕生日(2月1日)に購入するも、基礎的なローコードの練習など繰り返す内、“こんなん全然布袋ぢゃねえ”と阿呆らしくなり三日で挫折の三日坊主(ここから五年間ギター弾かず仕舞い)。その反動で詩作に没頭、大学卒業までに千以上の作品を認める(良い頃合いで世に出す予定です)。
平成二十四(2012)年九月(23歳)、定職に就いてから半年ほど経って、職場から近い高円寺にて一人暮らしを始める。室生犀星、寺山修司、ボードレール、ポーらの詩集を読み耽り、十代で挫折した三島リベンジにも成功する(再読のきっかけは、短篇「憂国」に描かれた容赦ないエログロの美に、文学の真髄を見てしまったから)。また、高校時代に教えて貰った谷崎の「春琴抄」や「陰翳礼讃」にもぶん殴られる(やっとこさ「春琴抄」に眼をやられただ)。加えて、三島経由でバタイユを知り、彼の処女作「眼球譚」によって谷崎にやられていなかった方の眼まで盲いられる(とうとう文学の沼に嵌まっただ)。更に、20世紀(大正~昭和)の日本の文豪へ影響を与えたスターン、ワイルド、バルザック、モーパッサン、ゲーテ、マンらのヨーロッパ文学にも手を出し始める。レコード屋巡り以上に、古本屋通いが趣味となる(遅読なので、未読の積読がみるみるうち溜まってゆく)。
平成二十五(2013)年七月(24歳)、ライヴに通っていた大好きなバンド・ダンボールバットのフロントマンであるアミさんの影響で、ブコウスキーや中上健次(それとあと「マカロニほうれん荘」)を読む様になる(今にして思えばワタクシ、アミさんから音楽だけでなし、いや音楽以上に文芸的な、余りに文芸的な影響を受けている)。
時を同じくして、T.レックスの「20センチュリーボーイ」のイントロのリフを遂に習得し(←超簡単よ)、グラム・歌謡・メタルの神様に日がな取り憑かれ、五年越しにギター練習を再開(自宅用マーシャル製小型アンプによる爆音演奏を昼夜繰り返し、隣人、大家、管理会社から口頭および書面での注意・退去勧告を何度か受ける)、そうして今度こそは作曲に没頭(大学時代の反動の反動)、断片も含め一年で百程の楽曲を認める(良い頃合いで世に出す予定です)。
平成二十七(2015)年七月(26歳)、我が人生初となるバンド・MBBM結成。バンドでの作詞作曲も始める。
平成二十八(2016)年八月(27歳)、当ブログ執筆開始。近況報告やライヴ告知の他、随筆エッセイ、詩、短篇・掌編等を書き始める。
平成二十九(2017)年一月(27歳)、MBBM解散ライヴ当日より──今日の常識を覆す為の今日、即ち──“毎日更新”を標榜する詩作活動【MBBMの日めくりバーニン】シリーズをTwitter上にて開始。翌月26日に新バンド・Unfinished Ballades結成、現在に至る。
あのいちばん底にひそんでいた自我──他の多くの自我の言うことに絶えず耳を傾けていなければならない(──つまりそれが読書といわれるのだ!)という重荷を負って、いわば土砂の下に埋まってしまい、声を失っていた自我が、しだいしだいに、おずおずと、ためらいがちに目をさました──そして、ついにそれはふたたび語りだしたのである。
-フリードリヒ・ニーチェ(Ⅱ)