2024年2月26日月曜日

(善悪彼岸)第三世界

私の生まれる1989年からちょうど一世紀前、鞭打たれる馬を可哀想だと涙して庇(かば)いながら、ニーチェが発狂した。今からおよそ半世紀ほど前には、野次や罵声やヘリコプターの騒音の中で己が最期の想いの丈を絶叫しながら、三島が腹割した。おかげさまで発狂も腹割もせず、気ままに音楽や文学をしながら、今日も私は生きている。だからこそ私は、誰かがそれをしなくても良い様に、しなければならない。私にしかできないこと、私だけでしなければならない、ものにしなければならない。

善い者たちは、独自の徳を見いだした者を、十字架にかけざるをえない。これが真実のすがたである。
 そして、善い者、正しい者たちの国土、心、土壌がどんなものであるかを発見した第二の者は、「かれらはだれを最も憎むか」と問うた者だった。
 かれらが最も憎むのは創造する者である。既成の表と古い価値を破る破壊者である。──それをかれらは犯罪者と呼ぶ。
 つまり、善い者たちは、創造の力をもたないのだ。かれらはいつも終末の発端である。──
 ──かれらは、新しい価値を新しい表に書きつける者を十字架につける。かれらは、おのれのために未来を犠牲にする。──かれらは、人間の未来全体を十字架にかける。
 善い者たち──それはつねに終末の発端であったのだ。

 十字架には惹かれるものがある。十字架が常に人に問うからである──貴様は此処(ここ)にか“け”るものか、か“か”るものか?

悲劇や闘牛や磔の刑などを見ることが、これまで人間にとっては地上でいちばん楽しいことだった。そして人間が地獄を発明したとき、見よ、それこそは地上におけるかれの天国であった。
-ツァラトゥストラ

 第一の者は云う──私はまことに、かけるものである──「罪業人を磔(はりつけ)にするものである!」。そうして彼等は晴れて、学校と会社の者になる。生まれながらの、善い人間である。こうして悪は遂に、裁かれなければならぬ。マイ・フィニッシュド・バラッズ──彼等は終わりを用意する──終末の発端である。

 第二の者は云う──私はまことに、かかるものである──「罪業人として磔にされるものである!」。そうして我等は晴れて、浮世と来世の者になる。生まれながらの、悪しき人間である。こうして善は遂に、暴かれなければならぬ。アンフィニッシュド・バラッズ──我等が終わりを破綻する──未完の終わらない詩である。

 第三の者は言う──かけるのも、かかるのも、結構な男だ──「六界記紀平成総体……持衰、絶対媾曳!」。ゲーテより、ニーチェより、トーマスがマンだ。呪おうが、呪わまいが、鉤十字(かぎじゅうじ)のロマンだ。マイ・アンフィニッシュド・バラッズ──赤、白、そして黒の──ドグラ×マグラ=ドグマ

それは彼の知らずにいた「東洋的なゲエテ」だった。彼はあらゆる善悪の彼岸に悠々(ゆうゆう)と立っているゲエテを見、絶望に近い羨(うらや)ましさを感じた。詩人ゲエテは彼の目には詩人クリストよりも偉大だった。この詩人の心の中にはアクロポリスやゴルゴダの外にアラビアの薔薇(ばら)さえ花をひらいていた。


 "Are you burning?"ドグマッ


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